龍司のための古典講座〜いろもの編〜
『龍司のための古典講座〜入門編〜』をお読みになった、教員経験のある方から、中学や高校の古典なんぞ、もっと色物を取り入れるべきだ、文法なんかやってるより、恋のいろはを語ったほうが、生徒たちも興味をもって聞くだろというご意見を頂きました。
文部省のお偉いさんは、ガチガチの真面目人間で、文法などへとも思わない賢い方ばかり、難しい古文・漢文もすらすら読めるから、そんな 「いろものから学ぼう!」 などと突飛なことを言う人もいないのでしょうが、好きな女性に無言電話やストーカーまがいの行為しか出来ない、気の弱い男どもが増えているということを聞くと、これはひょっとしたら、将来日本という国は、「恋愛作法」のようなことまで学校で教えなければならないのかも・・・・・いやいや笑い話しで済めばいいのですが、現に小学校で箸の使い方、トイレの使い方まで先生が指導しなければならないそうだから、なんだか"生きる"という根本にかかわることが大きく崩れていっているような気がしてならなのですよ。
たしかに、つまらない文法の講義を忍耐一途に過ごすなら、同じ古典を学ぶにしても、点数を気にしないでもう少し「情」というものについて考えることのほうが、将来この国を支える若者の心に彩りを添え、表現豊かにしてくれるのではないだろうかと思うのです。
歌を読むという心の発露は、ひとつに、「相手を思いやる気持ちの表現」にあるだろうから、文部省がやっと声高に叫びはじめた「心の教育」を遂行するにあたって、たとえば古典という教科においては、文法を正しく暗記することが大切なのか、昔の人の情を紐解いてじっくり味わうことに重点を置くべきか、ぜひ一考を願いたい・・・・・学問とは、本来、やすらぎと深い思慮・分別を与えてくれるべきものなのに、その道に、今の通学路はつながっているのだろうか・・・・・などと大きく語れば語るほど、母のたわごとはただただ虚しくなるばかり。素人が何ぬかしおるとお笑い下さい大臣殿。文字通り、たわごとでござりまする。
では"いろもの"という観点から授業を進めたらどうなりますやら、僭越ではございますが、無知の怖いもの知らずで私が一席。
メールを下さった方は古希をとうに過ぎて高齢でいらっしゃるにもかかわらず、縦横無尽にパソコンを操るスーパーおじいちゃんで人生経験も豊富。メールに自筆の、庭の花の絵を添付して下さるあたり、女性への心遣いも、色使いもなかなかのもの、多芸多才。
この 「いろもの」 という表現もちと古いけど、なんせ古典なんだからこのままいけるいける。本当はこういう方をぜひ講師におまねきして、指導要領全面改定とまではいかなくとも、ひとつのカテゴリーとして 「いろもの」 なんてあったりすると、龍司も少しは目を見開いてくれるかもね。
恋せずは 人は心もなからまし もののあはれも これよりぞ知る
藤原俊成
テキストの中表紙には、ぜひこんな一首を。さかりのついた猫のように目ぎらぎらさせてパートナーを求めるというのもどうかと思うが、淡い気持ちのひとつも経験せずに、ひたすら刻苦勉励の徒であれと、そんなやぼなことは言わない。
大学や社会に出た途端、風俗産業のえじきになったりしたら、親は悲しいよ。まあ、こんな刻苦勉励などという言葉からして龍司には無縁だろうけど・・・・・・
ふたつもじ うしのつのもじ すぐなもじ ゆがみもじとぞ きみはおぼゆる
悦子内親王(徒然草)
二つ文字・・・・・こ
牛の角文字・・・・い
直ぐな文字・・・・し
歪み文字・・・・・く
あなたのことをたいへん恋しく思ってます・・・・・・って、たったこの一言が言えないがために、多いに悩み、苦しみ、それで初めて、もののあはれもこれよりぞ知る!だよね。
もっとも、へたな鉄砲のたぐいでやたら告白してまわる人もいるが、これもまたあわれだね。とことん惚れてみろ、惚れて、ふられて、もののあわれを充分味わってみろ! なーんてね。おほほ。
百人一首などもいろものの宝庫だし、好いた惚れたが万とある万葉集だが、かなわぬ恋の辛さは多い。以下の四首は教科書にもよく紹介されているポピュラー品、主題のわかりきったものはいちいち分解して理屈を並べるより、五十首でも百首でもひたすら音読するのがよろしいかと・・・・・悩める生徒には多少の慰めとならんことを。
夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ
坂上大嬢
君に恋ひたも すべなみ 奈良山の 小松がもとに立ち嘆くかも
万葉集
相想はぬ人を想ふは 大寺の 餓鬼の後に額つくごとし
笠女郎
色見えで うつろふものは世の中の 人の心の花にぞありける
小野小町
次のは、ちょっと深刻 ―――――
恋ひ死なば 恋ひも死ねとや 我妹子が 我家の角を 過ぎて行くらむ
万葉集
恋死ぬのなら恋死ねとでも言うのか、あの娘がうちの前を通り過ぎていく。
愛し(うるわし)と 我が思ふ妹は はやも死なぬか
生けりとも 我に寄るべしと 人の言わなくに
万葉集
かわいいと私が思うあの子はさっさと死んでしまえ、生きていても、私になびくと人が言わないのに ―――― もうどうにでもなれという捨てばちな気持ち。思いを寄せる彼女がぜんぜん見向いてもくれないので、思い余ってぐさりと刺す、というようなこわい事件を連想してしまうような一首だね。次のはちょっと壮絶な覚悟の恋歌。
独り寝と 薦朽ちめやも 綾むしろ 緒になるまでに 君をし待たむ
万葉集
二人で寝たら敷物も傷むだろうが、独り寝ではそうやすやすと朽ちないだろう、でもたとえ独り寝で花ござが擦り切れて糸のようになったとしても、(そんな長い時間であっても)いつまでも私はあの方を待とう ――――
ここまで思ってくれるのはいいが、その思い込みがちょっと怖い気もする。いずれにしても、痴情のもつれでワイドショーネタにならなければいいがと、心配してしまうような一首だね。でも、こうして歌に表現できるような人は決してそこまでしない。言葉に表現するという行為が、ガス抜きになっているから・・・・・・と言っても、今の時代に古語で歌を読めって言ってるわけじゃぁない。今は今の若者なりの、時代に合った昇華の仕方があるだろうに。教養があるということは、身に付けた知識によっておろかな行為を回避できる人間であるということ・・・・・日本一の教養を身に付けているはずの某大学生が、彼女に冷たくされた腹いせに待ち伏せてナイフで刺したというから、やっぱり何かおかしい。
梓弓 引きみ緩へみ 来ずは来ず 来ば来そをなぞ 来ずは来ばそを
万葉集
梓弓、(=引くにかかる枕言葉)引いたり緩めたりして、来ないなら来ないで、来るなら来てくだざい。それなのになぜ、来ないやら、いや来るなら、それなのになぜ ――――
男の足がだんだん間遠になっていく女のイライラした気持ちが、"来"という音を何度も重ねる事によってうまく現わされているなあと思うんだけど・・・・・
ボーイフレンドに高級ブランド品をおねだりするようなおねえちゃん、マイカーの車種で彼を選ぶようなおねえちゃんに、ぜひ教えたい問答歌。
思ふ人 来むと知りせば 八重むぐら 覆へる庭に 玉敷かましを
玉敷ける 家も何せむ 八重むぐら 覆へる小屋も 妹と居りせば
万葉集
恋しいあなたがいらっしゃると知っていたなら、雑草に覆われた庭に玉を敷いておくのでしたのに ――――
玉を敷いている家なんて何になりましょう、雑草で覆われた小屋でも、あなたと一緒にいられたならば ――――
愛情の深さは贈り物の値段では計れないのですよ、ものさしを間違えてはいませんか?お互いにこういう謙虚な気持ちでいられること、たとえ本性が強欲でも、謙虚で美しい心にしてくれる力が、愛。道端の花一輪でも満たされる気持ちにしてくれる不思議な力が愛なのだから・・・・・・と、おばさんになるとついついおせっかいも言いたくなるが、年寄りのひがみだろうか・・・・・・あーあ、もっとあとに産まれときゃ私だって、並み居る男に贈り物山と積ませて東奔西走、シンデレラエキスプレスにだって乗らましものを。
次のはかなり艶ッぽい。
朝寝髪 われは梳らじ 愛しき(うるわしき)君が手枕 触れてしものを
万葉集
朝寝髪を私は櫛で梳くまい、愛しているあなたの手枕に触れていたのだから。
なんとおおらかに、大胆に、堂々と歌い上げたことであろうか。
相聞歌の中には、こうしてのびのびと歌い上げて、チャタレー夫人もボヴァリー夫人もちょっとドキッとするような歌もたくさんある。教科書にあるようなものとは、だいぶ雰囲気も違うでしょう? こうやって比較すると、先のは教材としては価値があっても、心情的に平坦なものが多いから、なるほど眠くなるわけだ・・・・・・・
こういうのを読んでいると、テレクラだの伝言ダイヤルだの、現代人はなんと陰気でスケールの小さいアバンチュールにうつつをぬかしていることか。
チャタレー夫人やボヴァリー夫人はどんなご夫人方かって?・・・・・今の時代から見たならば、まだ、罪の意識に悩むという健全な心を持ち合わせていた淑女でございます。
あふことの 夜をしへだてぬ仲ならば ひるまも何か まばゆからまし
源氏物語 箒木
"ひるま"という言葉は、昼間と、ひる=にんにく、が掛詞。昼間明るいうちに逢うのがなんだか気恥ずかしいという意味と、にんにくを食べて臭っている間は逢うのが恥ずかしいという意味があるそうで、訳は ――――― 一晩も欠かさず、毎夜逢うほどの睦まじい仲であるならば昼間(=にんにくが臭っている間)に逢ってもなんの恥ずかしいことがありましょう ――――― でもこれはちょっとすねた気持ちがこめられていて、あなたと私はたまにしか逢わない水臭い仲だから、ひるま逢うのが恥ずかしいのです――――― こんなの、教壇の上から解説するには、先生のほうが“まばゆし”かな。よっぽど経験積んだ先生でないとなかなか堂々と語れない。経験って、もちろん教員経験のことよ。えっ、ひょとしたら、近頃先生より経験豊富な生徒もいるって?
昔、現国の先生が、何かのはずみで源氏物語の話しになって、
「えー、源氏物語というのは、日本最古の恋愛小説でありまして、光源氏という、すごいプレイボーイが、たくさんの女の人と・・・・・」
ここまで言って、視線は教室のやや上目うしろに漂わせたまま、沈黙してしまったのです。
必死で次の言葉を探している様子がありありと見て取れたのですが、かなりの間を置いてさんざん気をもたせた挙句、
「・・・・・愛し合いました。以上」
で、何事も無かったかのように、次の話題に移ったのでしたが、その中途半端な解説のおかげで、教室が一瞬妙な雰囲気になってしまったっけ。そんなに悩むほど俗な小説とは違うと思うけど・・・・・・文法は忘れても、生徒はそんなつまらない事だけよく覚えてる。
季節や時間帯によって変化するものは何かと問われて、太陽の入射角などと答えるようではまだまだ修行が足りません。女心と答えておきなさい。女心は昔も今も入射角以上に微妙に屈折し変化するものなんだよ。どんなにすごいスパコン持ってきたって、そう簡単に解析できるもんじゃない、この道はプログラミング以上に険しいと思ったほうが間違いない。だから、そのスーパーおじいちゃんの「いろものを学べ」という説も傾聴の価値あり。
ちょっとくだけた毛筆体で、『いろもの』などというタイトルのついたサブテキストを、電車の中で静かに読んでる女子高生がいたりしたら、携帯電話で男の子呼び出している子より、気をそそられませんかねえ、中年のおじさん族は。そういうおじさんが、人妻に懸想する物語もあまたあるが、逆にこんなのもある。
不邪淫戒
さらぬだに 重きが上に 小夜衣 わがつまならぬつまな重ねそ
新古今和歌集 書陵部本唯心房集
そうでなくても、自分の妻でさえ罪が重いのに、その上さらに自分の妻でない妻と関係を重ねるな ――――― これはいろいろと人の道の戒め、道徳を説いたものの中のひとつで、要するに"妻以外の女に手を出すな"というわかりきった事を言っているだけなんだけれど、そこがほら、技巧の新古今と言われただけあって、これも見事な作りになっている。
〔重き〕は〔小夜衣〕の縁語で小夜衣とは衾、夜具のこと。〔さらぬだに重きが上に小夜衣〕はその次の〔つま〕を導くための序詞となっていて、その〔つま〕は、褄と妻の掛詞。最後の〔重ね〕は〔小夜衣〕と〔褄〕の縁語。
こうやってひとつひとつ紐解いてみると、言葉遊びを教養とした昔の人々の意気込みが感じられるね、ここまで凝るのかよーってね。龍司にもう少し語学力があったら、このまま英訳してホワイトハウスにメールで送るといいような一首だね。
でも、むずかしいよ、"妻以外の女に手を出すな"って言うだけなら、アメリカ国民のやじにもあったかもしれないが、この技巧性と品格とリズムと全体の持つ雰囲気を他言語に訳すのは。そのむずかしさが、日本語の魅力であり、誇りでもあり、美しさでもあると思うんだ。
お母さんがここでたびたび話題にする源氏物語、これは多くの人が現代語訳を書いているのだけれど、この十数年、ゆっくりゆっくり、その多くを読み比べてきたんだ・・・・与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、まだ読破してないけど瀬戸内寂聴・・・すべては原作に忠実にと訳されているにもかかわらず、その雰囲気は訳者によって大きく違っている。
たとえば谷崎のは、着物の色や柄や、その裾あしらいまでも、他の人に比べてあざやかに目に浮かぶようだし、これは決してそういう所を誇張し補足されているというわけではないのだが、情景描写もとても美しいような気がする。それに対して、女性の訳したものはやはり、女の悲しみがより深く伝わってくるような気がする。女性であっても、またひとりひとり味わいは違う。
古語から現代語へと言っても、日本語であることに違いはないのに、同じストーリーが、こうも雰囲気が違うのはなぜだろう。
画家が使う画材や絵の具の色に違いがなくても、出来た作品の雰囲気がみな違うように、言葉も、その組み合わせだけでなく、言葉を使う人の考え方、生きる姿勢によって雰囲気が変わる。源氏物語というひとつのストーリーを多くの人が訳したことで、言葉の魅力、言葉の魔力をより際立たせてくれたような気がしてならない。
訳者は皆一様に、源氏は魔物だという。皆生涯の長い年月をかけて、何度も加筆訂正をしながら、これでもかこれでもかと言葉を練って、谷崎などは三度も改訂版を出しているほどだ。それほどに、言葉というものは幾色にも光を放つ。
言葉には、そのひとつひとつに色がある。日本語には美しい色がある。たくさんの色がある。その色あいをめでること、味わうことで、言葉は心にしみてくる。これは古典を現代語訳で読み比べることで知り得た大きな収穫だった。
龍司は小さい時から、私が本を読んでいるといつもいきなりそばへ来て、遠慮なくがばっと表紙をめくって、題をたしかめにくる癖があったね。それが『源氏物語』に関するものであったりしたら、
「またこれかよ、なんでお母さん、こればっか読んどるの?」
と、馬鹿にしたように笑って言っていたけど、訳者によって微妙に違う言葉の色あいを、楽しんでいたんだよ。その微妙に違う色あいの中に訳者の心がほんの少し見え隠れする・・・・言葉は心の鏡、文は人なりと殊更に思う。
最近ちょっと不安に思うのは、この国は言葉の伝達をテレビに任せてしまっているんじゃないかということ。でも、テレビって、日本語のほんの一部分しか使っていないんだよ。なぜって、耳で聞いてすぐわかる言葉しか使われていないから。聞き取りにくい言葉、誤解を受けやすい言いまわしは、なるべく避けられている。コマーシャルや娯楽番組は正しさよりも、人を引きつける事に注意が払われているし、子供番組となるともっと語彙が少ない。うそだと思うなら、ためしに古典でもない、文語体でもない、口語体で書かれた近代文学といわれるものの一ページでも開いてみなさい。その中に、自分が見たこともない、聞いたこともない日本語がはたしていくつ出てくるか・・・・・・
龍司達は、話し言葉だけなら、もうすっかり覚えたような気になっているけど、まだまだ知らない日本語が、どれほど沢山あることか。龍司の知らない言葉の色が、どれほどたくさんあることか。
言葉は、何も学者のように難しいことを言わなくったって、身近な人の話しが理解できて、自分の気持ちを正しく言い表すことさえ出来れば充分だと思うんだけど、そしてそれは廻りの者や親から子へと、口伝で覚えたものが一番身に付いて自然なんだけど、その親でさえ、テレビっ子なんだから困ったなあ。
自分の気持ちを人に伝える・・・・・情を伝える・・・・・このことは日本語の一番ファジーな部分で、一番難しい部分で、でもそれは決して日本語の欠点ではなくむしろ美として、古代からこうして脈々と受け継がれてきたもの。その基本は、まずは喜怒哀楽の原点である家庭という単位で培われていくものが、家の中で、テレビだけがしゃべっている。
テレビは一見多くの情報を伝え、多くの言葉を教えてくれているようでも、心に届く細やかな感情の表現まで担えているだろうか・・・・伝え手から受け手への情を介さない言葉の伝達は、ただ通り過ぎていく雑音でしかない。
黙っていても一方的に送られてくる情報に甘んじて、自らコミュニケーションのきっかけを作るのが、不得手になってしまっているのではないだろうか。暴力に訴える子供たちは、みな極端に語彙が少ないような気がしてならない。
語るべき言葉を持たない子供たち、日本語を知らない日本人が益々多くなって、その子たちは、どうやって自分の気持ちを人に伝えたらいいのだろう。うんと悲しい、うんと苦しいではなくて、どのように悲しいのか、どのように苦しいのか。自分の心が今、どんな色をしているか。
内に溜まったものを言葉として吐き出させてやるために、一番言葉をおぼえる幼児期をテレビだけに子守りさせることをやめて、最小限、親から子へ、祖父母から孫へ、言葉の伝達を心して行わないことには、教養のない教養人が益々増えていくような気がするのです。
日本語は曖昧だから不完全な言語だと非難する人は多い。こうしてインターネットが普及すると、これからは英語の時代だ、英語こそが共通語だと、やれ学べそれ学べの掛け声も大きい。
それはそうかもしれないが、だからと言って、自分の国の言葉をないがしろにしていいという筈はない。これほどに自国語に自信と誇りを持たない国民は他にあるだろうか・・・
親もすでにテレビっ子なのだから、心して言葉を学べ、日本人なんだから日本語学べ!と教養のない我身を励ます。この道は棺おけまでの生涯の道。
イタリアのドンファンからきたメールにニ、三度やり取りして、ここは大和なでしこ、そう簡単には気を許しませぬ、はいさよならと軽く肘鉄をくらわした母であったが、能力不足で単に英語のやり取りに疲れただけ。直接的な甘い愛の言葉の浴びせ倒しよりも、花一輪、気配りひとつに少ない言葉を託す国民性を、ちゃんと説明しておいた方がよかったかしら・・・・・地球の裏側とも容易に会話のできる時代、なるほど国際恋愛には英語力もあらまほしきことなり。龍司もどこかでいい練習ソフトでも探して勉強しなさいよ。あれ、そういえば誰かさん確か売っていたんだよねえ・・・・
本日の古典講座、色道に行くと思いきや、またちょっと色の違う、言葉の色の話に寄り道したけど、色々あるのが母のたわごと。本日のキーワードは、色と情でした。"色情"とくっつけてしまうと、また意味はずいぶん違うからね。
龍司にとっては、これも雑音にしか聞こえないだろうなあ・・・・・・ボリューム絞らずに聞いてよね、プログラミングに惚れこむのもいいけど、今日はバレンタインデーで世の中騒いでいるというのに、こんなところで鉄人の卵焼き食べて喜んでていいのか? 世の中のはやりすたりに迎合せよとは言わないが、どうもこれじゃあねぇ・・・・・・
いにしへも かくやは人のまどひけん 龍まだ知らぬしののめの道
参考 谷崎潤一郎訳源氏物語 中央公論社
日本古典文学全集 万葉集全4巻 小学館
日本古典文学全集 新古今和歌集 小学館
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