この死をば
たしか随分前に読んだ谷崎潤一郎の著書の中で、最近では『○○をば』などという古い言い方は使われなくなって、自分(谷崎)の思う限り関西ではあまり聞かず、江戸言葉で、しかもあまり品のある部類ではなく、文壇では永井荷風が作品の中で扱ったのが最後ではないか、などというようなことが書かれてあった気がするのですが、私の祖母は江戸っ子ではく、チャキチャキの岐阜っ子なれど、この『○○をば』という言い方を頻繁に使っておりました。
前の語を強調する意があると思うのですが、『をば』は東京人に限らず、その後も多くの人の文中でよく見かけたし、今でも口にする人はいるので、さすがの文豪谷崎も思い違いであったのか、それとも私の記憶違いか。
「おんし、はよう、まんまをば食え」
「寒うなったで、ほれ、このうわっぱりをば、一枚はおれ」
「気イつけてあいかんと、頭をば打ったら、おおごと、おおごと」
惚けて臥したきりとなった祖母に、ご飯を食べさせながらふと、幼い頃言われたこんな言葉を思いました。直訳すれば、
「あなた、早くご飯を食べなさい。
寒くなったから、ほら、この上着を一枚着なさい。
気をつけて歩かないと、頭を打ったらたいへん、たいへん」
忘れられないきわめつけの一発は、私が中学生だった頃友達と下校途中、向こうからやってきた祖母が、その距離まだ2、30メートルはあろうかというのに、私と認めた瞬間大声でこう呼びかけたのです。
「今、おんしのバンツをば、取り込んで廊下に置いといたで、しまっとけよ」
洗濯物を取り込んでおいたから片付けなさいという指示であるが、何もよりによって道の真ん中で、しかも大声で、ハに濁点をつけて"バンツ"などと言わなくてもいいのに。
その言葉の響きからは、ゴム紐も伸びきったような、ずるずるのデカパンを想像してしまいますが、間違っても私がそんな品のないデカパンを穿いていたのではありません。取り込んだのは、なにも"バンツ"1枚だけではなかろうに、まっ昼間から往来でそうなふうにして声かけられた、若き乙女の心中をお察しあれ。
たしかに祖母の言葉に品はなかったけれど、そのひとことひとことに、憎めない愛情はあった。
その、
「気イつけてあいかんと、頭をば打ったら、おおごと、おおごと」
と言って私をたしなめた祖母が、90歳を超え、すこし痴呆が始まっていたところに、今年の4月、階段から落ちて頭を打ち、本当におおごとになってしまった。
落ちたすぐは危篤とまで言われたけれど、幸い意識も戻り、おでこに大きなこぶを作り肩の骨を折って、ひと月ほど入院した後、自宅に戻りました。しかしその後、丈夫だった足も衰えて寝たきりとなったのです。
体は至って健康で何ひとつ病気もなく、骨折のほうは、この年になって特に治療の方法もないから自然にまかせるしかないと、包帯で腕を固定させているだけでしたが、折れた骨が、割り箸の先ほどにピンと一本、肩の先に突き出たようになっていたにもかかわらず、驚くほどの回復力で痛みもとれ、夏までには手先も腕も、日常の所作に不都合でない程度に動いておりました。
我が家からほんの3.4軒先に、祖父母は私の両親と暮らしており、自宅療養となって、私の母が面倒を見ながら、訪問看護や週に2回ほど町の入浴サービスに連れていってもらっておりました。
そんな中でぼけは益々進行、そのうち子も孫も認識できなくなり、思い出すのは、もう何十年も前にあの世に行ってしまった親兄弟の名前ばかり。一日の大半をほとんど眠って過ごしておりましたが、10月11日、まことの眠りにつきました。93歳でした。
亡くなるひと月ほど前から、
「もういい、もうなーんにも、食べとうない」
と、きっぱりと言いきって、どこか遠いところを見つめるようにしているさまは、死にゆく身支度を自ら、整え始めたようでもありました。
老人のぼけは、死の恐怖を緩和させるための自然の摂理でもあると聞いたことがありますが、介護する側にとっては大変なことですが、祖母のような身には喜ばしきことなのかもしれない。食事も排泄も自分で思うようにできなくて、衰えを正確に認識できる能力だけ残っているとしたら、大変な屈辱に違いないから。しらふで死を待つ・・・・このような言い方が正しいかどうかは別として、しらふで死を待つことなど苦しくて耐えられないに違いない。
おかゆ一口、湯飲み一杯ほどの水分を何度にもわけてとるのがやっとの日が何日か続いて、無理強いしなければ、食べることも飲むこともなしに、じっと寝たままでいられる。日に日に痩せてゆく身ながら、けれどもそこには、悲壮感はまったくない。
思えばこの半年間は、生きて味わった痛みや苦しみから徐々に開放されるための時間であり、皆が別れを納得するための時間。ベッドの上に置かれた祖母の命は、一服の薬にも害されることなく、一本の生花が徐々に水分を失ってドライフラワーになって行くように、何苦しむことなく枯れてゆく。階段から落ちたことは、ひとつの災難ではあったけれど、天寿全うして "枯れる"という表現以外ない、精神の衰えと肉体の衰えが調和した、言ってみれば、健康な死。
亡くなる前の夕刻、いつものように様子を見て、私は自宅に戻りましたが、そのあとすぐに、どうも様子がおかしいと連絡があって行くと、めずらしくしっかりと目を見開いて少しあらい呼吸をしておりました。
看護婦さんに来て頂いた時には、それ前まで正常だった血圧もうんと低くなっており、呼吸が荒くなったのは、心臓の働きが充分でなくなって、少し胸が苦しいのかもしれないということでしたが、この状態がいつまで続くかわからないけれど、自然死だから、家族で見守って完全に息が切れたとき、病院に連絡をくれればいいと引き上げました。
時々宙をつかむように手を上げてくる以外、それほど苦しむ様子もなく、持ち上げる手を握っていると、見る間に指先が紫色に変化してゆき、その手をもみほぐしてゆくと、また血の気が戻るという状態でしたが、それは、この半年という時間の経過の、自然な延長線上に、いよいよ最後の死という現実が近づいているあかし。
午後9時頃、ひとつ上94歳になる祖父が、祖母の傍らにきて、
「もうすぐお祭りやで、それまで待てよ」
と言う。祖父も同じように衰えてきてはいますが、身の回りのことぐらいは自分で出来ており、心配そうに見入っている。
思いついて私は、三男に笛を持ちに行かせて、耳元で吹いてあげるように言いました。 三男の雅史は、3日後に控えた秋祭りの、お囃子の横笛を教わって、夏休みからずっと練習してきており、だいぶうまく吹けるようになっていたのです。
「えっ、こんな時に、めでたいときの笛なんか吹いていいの・・・」
と雅史は遠慮しておりましたが、90過ぎてこんな綺麗な姿で息を引き取ることが出来ればめでたいことだから、意識のあるうちに聞かせてやってくれと私の母も言うので、練習してきた横笛を枕元で2曲ばかり吹きました。
祖母は最近にないしっかりとした表情で、聞こえている様子でじっと、このひ孫を見ておりましたが、目尻にうっすらと涙・・・・きっとそれが体に残った最後の水分だったと思います。亡くなる4時間ばかり前のことです。
神に奉納する曲といわれるその横笛は、そんな場で、一層おごそかに響き、親の私が言うのもなんですが、雅史は本当に心に届く音色を奏でました。
明治、大正、昭和、平成と、この地で生きてきて、すべての苦労を清算して今、少しのおつりをもらったような、やすらかな死。
荼毘のあとの、まだぬくもりの残る骨をひざに抱いて、車が火葬場の山をゆっくりと下りると、おだやかな、どこまでもおだやかな秋の日ざし。
曲がりくねった道をともに揺れながら
死もまた、切り離せぬ人の営みのひとつならば
子供たち、
この死をば、笛を奏でて耳にも残せ、
この死をば、花を飾りて目にも焼き付け、
喜ばしきものと心に刻め・・・・・・この死をば。
. | ご意見御感想は、ryuuji@takenet.or.jpまで. Copyright 1997 RyuujiYosimoto. All rights reserved. |