版画家 吉田博  www_logo.jpg

「吉田博 光る海」

瀬戸内海集より
「光る海」
大正15年 37.2×24.7cm
「吉田博 鞆之港」

瀬戸内海集より「鞆之港」
昭和5年 24.6×37.1cm
「吉田博 鍋島」

瀬戸内海集より「鍋島」
昭和5年 24.6×37.8cm
「神(こう)の島」

瀬戸内海集より
「神(こう)の島」
24.5×37.6cm
「阿武兎(あぶと)の朝」

瀬戸内海集より
「阿武兎(あぶと)の朝」
24.5×37.6cm
「静なる日」

瀬戸内海集より
「静なる日」
24.5×37.6cm
「穂高山」

日本アルプス十二題より
「穂高山」
24.8×37.4cm
「黒部川」

日本アルプス十二題より
「黒部川」
37.5×25.1cm
「五色原(ごしきばら)」

日本アルプス十二題より
「五色原(ごしきばら)」
24.6×37.4cm
「立山別山」

日本アルプス十二題より
「立山別山」
24.9×37.2cm
「鷲羽岳(わしばたけ)の野営」

日本アルプス十二題より
「鷲羽岳(わしばたけ)の野営」
37.2×24.1cm
「針木(はりのき)雪渓」

日本アルプス十二題より
「針木(はりのき)雪渓」
37.8×24.6cm
「烏帽子岳の旭」

日本アルプス十二題より
「烏帽子岳(えぼしだけ)の旭」
24.9×37.2cm
「大天井岳より」

日本アルプス十二題より
「大天井岳(だいてんじょうだけ)より」
37.2×24.1cm
「雷鳥とこま草」

日本アルプス十二題より
「雷鳥とこま草」
37.8×24.6cm

吉田博 略歴

■【吉田博】正しくは、吉田のヨシのつくりは士ではなく土、以下同様)

1876 M9 旧久留米藩士【上田束秀之】の次男として久留米市に生まれる。
1891 M24 修猷館中学の図画教師【吉田嘉三郎】の養子になる。
1893 M26 京都へ行き洋画家【田村宗立】に師事。
1894 M27 上京し、【小山正太郎】が主宰する不同舎に入門。
1898 M31 明治美術会10周年記念展に「雲叡深秋」「雲」などを出品。
1899 M32 洋画家【中川八郎】と共に渡米。デトロイト美術館で「日本画家水彩画展」を開催し、好評を得る。
1900 M33 ボストン美術館で2人展開催、続いてワシントン等で開催し大成功となる。
      夏、渡英。
      パリ万国博の日本現代画家作品展示「高山流水」が褒状受賞。
      ドイツ・スイス・イタリアを歴訪し米国に渡る。
      11月、【満谷国四郎】【丸山晩霞】ら4名が渡米。
      12月、ボストン・アート・クラブで【吉田博】【中川八郎】を加えた6名による「日本画家水彩画展」を開催。
1901 M34 【吉田博】【中川八郎】の両名帰国。
1902 M35 明治美術会が【吉田博】発案の太平洋画会と改められ発足。
      第1回太平洋画会展に「榛名湖」など25点を出品。
1903 M36 義妹(妻)【吉田ふじ】と共に渡米。
1904 M37 セントルイス万国博に「雨後の桜」など3点出品、銅賞牌を受賞。
1907 M40 2月、帰国。
      東京勧業博覧会で「紐育ブルクリンの夕景」2等賞受賞。
      第1回文展で「新月」3等賞受賞(文部省買上)。
1908 M41 第2回文展で「雨後の夕」2等賞受賞。
1909 M42 第3回文展で「千古の雪」2等賞受賞。
1910 M43 第4回文展の審査員をつとめる。
1912 M45 第6回文展の審査員をつとめる。
1913 T2 第3回東京勧業博覧会の西洋画部審査員をつとめる。
      第7回文展の審査員をつとめる。「酒田港」など3点出品。
1919 T8 第1回帝展に「雨後」などを出品。
1920 T9 明治神宮奉讃会依頼による最初の木版画「明治神宮の神苑」を渡辺木版画店より出版。
1921 T10 渡辺木版画店より最初の本格的木版画「牧場の午後」を出版。
1923 T12 関東大震災のため渡辺木版画店より出版の版木8種消失。
1923 T14 米国から英国へ渡り欧州歴訪。8月帰国。
      この年始めて自画監修の木版画「アメリカの部」6点と「ヨーロッパの部」11点を制作発表。
1926 T15 「日本アルプス十二題」12点ほか合計41点の木版画を制作発表。
      第7回帝展の審査員をつとめる。
1928 S3 吉田博版画展(高島屋)開催。
      「日本南アルプス集」6点ほか合計35点の木版画を制作発表。
1930 S5 長男遠志を伴いインド・東南アジアを巡歴。
1931 S6 3月帰国。吉田博印度漫遊記念展(三越)開催。
1933 S8 吉田博版画展(三越)開催。
1935 S10 第二部会に参加、展覧会委員となる。
1936 S11 【足立源一郎】【石井鶴三】【茨木猪之吉*1】らと日本山岳画協会を結成。
      朝鮮・中国に写生旅行。
1937 S12 第1回新文展に「利尻姫沼」(李王家買上げ)を出品。
1938 S13 陸軍省嘱託画家として中国に派遣。
1942 S17 吉田博木版画展(大阪・大丸)開催。
      第5回新文展に「ウダイプールにて」出品。
1946 S21 最後の木版画「農家」を制作発表。
1947 S22 太平洋画会会長となる。
      第3回日展の審査員をつとめ「初秋」を出品。
1950 S25 下落合の自宅で永眠。享年73歳。

*1吉村唯七の師
 hanga gallery:200点強の作品画像
石川寅治と吉田博

高知市に生れた石川寅治は、旧制中学時代に洋画を師事した上村昌訓の勧めで1891年に上京し、小山正太郎の画塾・不同舎に学ぶ。1901年*2、出品していた明治美術会が太平洋画会に改組されると、満谷国四郎、吉田博、中川八郎らとともに参加し、また1907年には策1回文展にも出品し、以後、文展・帝展・新文展・日展と亡くなるまで一貫して官展を舞台に活躍しました。さらに1947年には太平洋画会を脱会して示現会を結成し、その代表として創作活動を展開していきました。石川寅治は、主として裸婦をはじめとするさまざまなスタイルの女性像や日本各地の風光明媚な土地を巧みな色使いで描き続けた。
石川寅治と吉田博との接点は不同舎にはじまり、明治美術会、太平洋画会、文展、帝展と続く。吉田博が石川寅治に木版画の制作を薦めたと言われている。
1934年に制作された木版画の 「裸女十種」 というシリーズは圧巻である。

*2=明治美術会解散=1901年、太平洋画会第1回展=1902年春
 hanga gallery:14点の作品画像
 www.castlefinearts.com