山を描くということ  www_logo.jpg

 生涯一つの山を描き続ける力はどこから湧いて来るのだろう。吉村は【恵那山百態】と称し、「季節と描く場所を変えれば恵那山は一生の題材です。」と言っていた。そして一枚を描きあげるのに、永いときは5年も10年もかけた。
 吉村は一つの山を描き続けることが、絵を描くことの原点に至ると考えていた。吉村は、恵那山の絵は公募展に出さなかった。技術は他人と比較できても、絵に込められた山に対する信仰の心は比べられないと考えた。
 吉村は生前、出身地中津川市役所に絵を寄贈したことがある。吉村を訪ねたときに、「暗くて見え難い所に飾られた。」と寂しそうに話していた。華やかな絵を好む人、流麗な技術に感心する人は、吉村が山に何を見ているのか、なぜ山の絵を描いているのか直ぐにわからず戸惑う。20数年前に市役所に寄贈された絵は、現在は市長室に飾られている。吉村の見ていた恵那山が、先ず恵那山を眺める機会の多い地元の人々に見えるようになったのは当然だろう。
 吉村の絵は、喩えれば自然食品であろう。人工調味料のドギツイ味になれた人には、自然の甜(うま)みは直ぐに判らない。本来の甜みを思い出すには、時間をかけて人間本来の感覚を蘇らせるしかない。蘇るとき、それは自然の中を歩いていてフト自分の存在に気付く瞬間に似ている。
 吉村の「恵那山は右の肩に雲が出る。」と言う言葉は、自然に潜む理(ことわり)を示している。吉村の絵の白い雲、それは恵那山の地形と空間のつながりを示している。それがわからないと、絵の中の白い雲を見て底の浅い絵と早合点する。自然が彫りこんだ山の外形、それを内側から支える構造、吉村はそれらの外と内の力の真際を見ながら彫刻を作るように絵の具を置いている。
 吉村は、師匠の茨木猪之吉から技術を見せびらかすような絵は下品だと戒められた。茨木は、大正初期に日本美術院洋画部の院友だったことがある。その頃の日本美術院では、作家の人格が画格を作ると考えていた。また茨木が若い頃二科会に入選したとき、山下新太郎から「君の絵は、あまりに正直すぎるし、自然を忠実に写すというだけで、もっと主観を強く出したら。」と評された。しかし茨木は、自己に正直でなければ自然が心を開いてくれないことを知っていた。後に茨木は日本山岳協会創立会員となり、吉村は茨木の紹介で日本山岳協会展に出品したことがある。しかし茨木は昭和19年穂高岳で遭難、吉村にとって穂高岳を望む上高地は茨木の御霊が眠る霊地となり、晩年まで足を踏み入れようとしなかった。
 吉村が上高地を訪れたとき山霊に触れ、絵を描きに来なかったことを悔やんだという。
 明治ころまで神聖さを保ってきた山岳も次第に多くの人が登るようになり、それに連れて山岳画も霊気を失っていった。しかし吉村は、地元で信仰の対象として崇められ、行楽気分で登る人が少ない恵那山を敬愛した。恵那山は自宅の縁側から眺望でき、吉村にとって生れたときから見てきた肉親のようなものだった。吉村が毎年同じ季節に描きかけの絵を持って訪れる地域の人達は、自分達も敬愛する恵那山を描き続ける吉村を大切にしてくれた。
 吉村が現地制作を行うのは、恵那山に心を遊ばせ、描いている自らも絵の中に取り込んで同化するためである。また同じ季節に同じ場所に立って描くのは、時季によって太陽の位置や空気の密度が違い、山から受ける実感が違うからだ。吉村は、いつも山に対する感謝の気持を絵に込めようとした。それには現地に行って、山と対面する事が必要と考えていた。現場制作を、山襞や季節の変化などの表象を描くためと考えがちだがそれこそ勘違いで、表象だけなら1〜2度現場に行ってそこで撮った写真を見て描くことができる。
 吉村は「私は自分の目で見たとおりしか絵が描けないんですよ。」と言っていた。本質を自分の目で見るには、自然から教えを請い、自然の造形を五感で体感し、謙虚な目で自然と対する以外に方法がない。絵を作っていないから、同じ恵那山を描いているにも拘らず吉村の恵那山は一枚一枚受ける印象が違う。そうであってこそ、吉村の山岳画は山霊との出会いから生れていると言えるのだろう。

美術史家 千田敬一