落花生を自家用に作っている人はいましたが、商品として市場に出す人はほとんどいませんでした。生のままではあまり売れないのです。昭和二十九年、栄一は落花生をいって食べられるばかりにして売ることは出来ないかと思うようになりました。問題は、焦げないようにいる方法でした。栄一の頭にひらめいたのは、正月の十日市に出る露天商の焼き甘栗でした。大きな鍋に入った砂で栗をいると、砂の熱気がまんべんなく四方から栗に伝わり焼き栗になる。あ!あれだ!これならうまくいくと直感しました。さっそく、近くの山(星ガ見岩)の石切場に行き、バケツで風化した花崗岩を持ってきてふるいわけ、きれいに洗い大鍋に入れ、試しに落花生をいってみました。予想通り、落花生は焦げることなくいることができました。翌朝五時半に起き、いった落花生十六キロを自転車に積んで八百健市場へ持っていきました。買い手が現れるだろうか、いくらで売れるだろうか、栄一はせりが終わるまで市場に立って見ていました。四キロ入りの紙袋一つが八百円で取り引きされたと覚えているそうです。栄一の落花生を買ってくれた商人は、仲間の商人に少しずつ落花生を食べさせ、次に出荷のために市場に来て話していた人達の所へ行って、落花生を手に乗せて見せながら、
「ここまで仕上げて市場へ出せよ。」
と言ったのを、三十年経った今もあざやかに思い出すそうです。
「帰りは、心もうくうきとして空の自転車がみょうに軽かった。」
と話してくれます。
しかし、砂でいった落花生は、落花生の表皮の細かい穴に砂が入り込み、食べるときジャリッ、ジャリッとすることがありました。3回ほど市場に出しましたが、これでは商品として長続きしないだろうと思われました。そこで思いついたのは砂の代わりに塩を使うことでした。大きな鉄のなべに塩をたっぷり入れ、落花生を入れていってみました。パチッパチッという頃に落花生を取り出し、塩と落花生をふるいでわけました。これは、ジャリジャリしないばかり塩味もついていて、とてもおいしく仕上がりました。最初の出荷は、昭和二十九年の秋のことです。買った商人は、分け合って食べていて、これならやれると思ったそうです。塩味の落花生はとても評判がよく、自分の畑で生産しただけでは足りなくなってきました。翌年には、近くの農家を一軒一軒訪ね、落花生の種を渡して、生産を頼みました。「あそこは、作った落花生を買ってくれる家だ。」ということで、落花生を作ってくれる人も、持ってくる人も増えて来ました。翌年からは、自分で作る何倍もの落花生が集まりました。
 その頃、栄一の持っていた道具は、手回しの皮むき機、鉄の大鍋、自転車、リヤカーだけでした。朝から晩までいると、五十キロぐらいの落花生ができます。しかし、胃潰瘍を患い、時々血を吐き、畑仕事をおばあちゃんい任せて寝込んでしまう栄一にとってはとても重労働でした。なんとかもっと楽に仕事をしたい、大量に落花生をいりたいと思った栄一は、落花生をいる機械を作ることを思うようになりました。自分で考案した『手回し式落花生煎機』を親しくしていた鉄工所で試作してもらいました。
実際に使って見ると、落花生がドラムと外壁の間に入り込み、ぽたぽたと火の上に落ち、火がついて煙が出て燃えてしまいました。原因は、鉄工所にはこうした物を作った経験がなく、栄一も安く作ろうとしたからでした。いい思いつきでしたが、結局実りませんでした。昭和三十年の秋のことです

落花生を砂で煎ることを考案