平成17年4月23日発行
<<No37>>
 <共栄区史編纂委員会>
編纂委員募集中、証言者大歓迎

<唐木さんの戦中、戦後>
 唐木さんは、坂下町出身。満州開拓団に加わり、ウラジオに近い七星に開拓に入った。七星坂下開拓団である。敗戦時、七星から奉天までの1000kmを逃げた。その途中で子どもが死んでしまった。日本に帰れたのは昭和23年の頃である。
 当初、坂下の花の湖の近くにある三菱の農場にで働いていた。その縁で、今の市民病院の所にあった三菱の農場(戦後の食料不足を補うため給食用の野菜を確保するため、八百健から借りていた。戦前は栗の畑であったが伐採し野菜農場になっていた)で働くことになった。
 諸事情により、そこを離れ熊谷さんの近くに移り、昭和26年頃現在地に居を構えた。この話で分かることは、戦後の一時期は、今の市民病院の辺りは、三菱の給食用の農場であったということである。

<農林学校の南寮と実習農場>
 農林学校の南寮があったのは林彰さんの家の周辺である。遺構としてはしては、コンクリート製のサイロがある。西小学校の近くに農林学校がありそこからこの寮に通っていたらしい。実習地として今の自動車学校の辺りにある畑を使っていたらしい。
リンゴなどがあったことが思い出される。いつ頃からあったのか、いつまであった
のか、どれほどの規模であったのか定かではないが、昭和18年にはあった(細野さん)昭和19年にはあった(歌子さん)の証言がある。また最近、この農林学校出身者と話した(細野さん)とあるから、中津川の教育史を調べれば分かるかもしれない。その頃の様子を概略すると右のようになる。