平成17年12月27日発行
<<No49>>
 <共栄区史編纂委員会>
編纂委員募集中、証言者大歓迎

鈴木克一さんの入植物語(T)
 克一さんは、鈴木正敏さんのお父さんに当たる方である。安八郡前田で農業を営む方の次男でした。どうして、安八郡の人がこの地域に来たか不思議に思いましたが、坂本の北原に克一さんのおじいさんの弟・土屋さんが住んでいたことが縁だったそうである。土屋さんは、お蚕をやっていました。当時、お蚕は大変景気が良くて、克一さんは土屋さんの家に手伝いに来たそうです。来てみると、坂本は蚕だけでなく野菜がとてもよく出来たことが分かりました。安八郡の前田は野菜を作るところがなく、沼田の泥を畦にすくい上げ、50cm程盛り上げたその上に野菜を作ったそうです。盛り土の幅もたいしたことがなく、50cmから1m程だったそうです。
<掘っ立て小屋から始めた開拓>
 野菜は作りたい、蚕も飼いたいということで、坂本に単身移ってきました。当初は、坂本の土屋さんの家に住んでいましたが、若森多三郎さんの下辺りに仮住まいの住居を建てて移り住みました。ヒノキの皮の屋根、ワラで囲んだような文字通り掘っ立て小屋だったと思います。原始的な生活が2年間続きました。冬は特に辛かったと思われます。食料は、坂本の土屋さんから仕送ってもらいました。20歳から22歳の頃は冬中開墾に精をだしました。そうした苦労の末に、現在の家の辺りに桑を植え、トタン葺きの家を建てました。坂本の土屋さんには、そんな具合で助けて頂いたので、おじいさんの弟ではありましたが、本屋と呼ぶようになりました。
<ハヤテにかかって兄弟が亡くなる>
 大正10年には、23区の伊藤治作さんの長女・静という人と結婚することができました。正敏、治夫、昭一、実、静夫、三枝、芳枝、春子、茂と9人の子どもに恵まれました。ところが正敏さんが16歳の時の兄弟が相次いで亡くなりました。ハヤテです。7,8月頃によく流行りましたが、なり出したばかり畑のものを食べるとなると言われていましたが、急性胃腸炎ではないかと想像します。昭一さんは5歳で、実さんは3歳で亡くなりました。一日おきに兄弟が亡くなってしまいました。蚕が忙しい時でした。他の兄弟もハヤテにかかって看病しなくてはなりませんでした。そこで16歳になっていた正敏さんが坂本の土屋さんに助けてもらいながら、喪主として葬儀を行うことになりました。大変悲しい出来事でした。