共栄物語 
平成15年9月24日発行
  No1
 <共栄区史編纂委員会>
  毎月24日7時半より開催


 大正元年頃、横道に最初の入植者を迎えて以来、共栄区は徐々に住む人が増え、昭和10年になる頃には、共栄区には11軒(古野、林、古屋敷、若森、吉田、鈴木、西尾、水野、原、田口、小木曽)を数えるほどとなった。
 大正5年、林與八さんは、24区の安藤為蔵氏と共に役場や会社と電気を通すように交渉し、「一軒八円の銭を出せば引ける。」という返答があった。ところが、「電気よりも石油の方が安い。」という反対意見が多く、大正5年に電気を通すことが出来なかった。
 当時の生活を知る大山歌子さんは、「ランプのほやを拭くのは子供の仕事だった。お前は小さい手やでふけと言われよくランプをふいたもんだ。」と話して下さった。
 鈴木正敏さんによれば、「昭和10年10月10日は共栄に電気が引けた日だ。電気を引くにお金を出したのは林與八、小木曽浅次郎、田口時冶さんの3人だ。後の人は、抱える程のヒノキを切りに行き電柱にした。他の地区に比べてずいぶん早く電気が引けたのはこの3人のおかげだ。」ということだ。
 中電に勤めていた唐木さんはそのあたりのことは詳しく、「当時は今と違って電気を自分の所まで引く工事費は個人負担だった。山の下まで来ていた電気を上まで持ってくるにはかなりの金がかかったと思う。最初の人は金がかかるが、後の人はそこから自分の家までの工事費を負担すればいいので助かる。この地域でも終戦後まで引けなかった所がある。」と説明して下さった。
 仙洞田すみ子さんは、「すごく明るくなって嬉しかった」と子供の頃の思い出を語って下さった。
 少ない戸数でも当時の文明の利器を他に先駆けて取り入れた先見性と奉仕の精神、それに、財力が荒れ野の開拓の中から生まれていた。

<写真:左は林輿八、右は田口時爾さん>