共栄物語
 

平成15年11月24日発行
<<No13>>
 <共栄区史編纂委員会>
 毎月24日7時半から、クラブ

討伐後、垢と埃で甘酒色のどろ風呂へ
                   小木曽駿二(大佐用2年4月7日生まれ)
私は昭和十四年四月、二十七才で結婚。同年十月下旬補充兵の召集令状により岐阜第六十八連隊に入隊、初年兵教育を受け、戦友の大部分は中支の的野部隊要員として出征。我らは北支要員として、昭和十五年二月、ペンキの臭いも生々しい四千噸級のボロ貨物船に乗せられて宇品港出発。一路、玄海灘に向う。山なす大波はさながら笹舟のように我らを翻弄した。軍歌戟友″に有る如く、祖国が見えなくなった時、とあるが、作詩者の実感を淋しく心で味わった。
 青島に上陸、任地は山西省の独立混成第四旅団独立歩兵第十四大隊四中隊(尾坂隊)に入隊。石太線鉄道警備に任じた。山西省孟県寿陽の警備が主であったが、たまたま、昭和十六年十二月八日(司令部勤務中)大東亜戦に入ったことを知った。河北河南方面への作戦にも、たびたび分隊長として参加。冬季、酷寒の渡捗(二月上旬)など、狼の遠吠えを聞き、腰下がずぶ濡れ。骨の髄まで凍ったこともあった。 炎天下の夏季河南作戟では、左腕に銃弾を受け、危うく骨折を免れた。
天佑神助の有ることを心から体験。感謝する。一か月近く討伐に出ると、体は垢と砂塵にまみれ、入浴するがまるで甘酒のように、たとえようもないどろどろした風呂に入った(一個中隊で一つの風呂)。入浴するにも、今は心から感謝の念がわく。泥水すすり草を噛み、と軍歌に有る如く、まさに泥水を飲み、全員がマラリヤ(三日熱)や、アメーバ赤痢になったこともあった。食欲はなく、綿のように疲れた体。そんな時、士気を昂揚するため、飛行機で爆薬や内地の慰問袋の投下を受け、祖国の味キャラメル、小さい一個が何程有難かったことか。今もその味が舌に残るような気がする。 故郷の有ることが人生にとってどれはど有難いことか。鮭の稚児が育った河の臭いを忘れず、その川へ帰って来ると聞く。これ、生物の本能であろうか。それとも種族繁栄のためにか。昭和十八
暗渠年二月、山海関鮮満国境通過、下関港上陸。二月十七日召集解除。帰宅した時は見知らぬ長女が、数え年四才であった。出征中は家内も筆舌に絶する苦労であったことであろう。
 第二回、昭和二十年六月二十六日臨時召集により、東海第五十九部隊(三重県久居)に応召。同日、東海ニー七八五部隊土居隊に編入。静岡県の警備に任じ、小笠郡細江町小学校に宿営中、浜松市へ艦砲射撃を受く。七月、陸軍伍長に任官。大測村小学校に於て終戦となる。心から真の平和を祈念してやまない。戦死者の御冥福を只管お祈りする。