共栄物語 

平成15年11月24日発行
<<No14>>
 <共栄区史編纂委員会>
編纂委員募集中、証言者大歓迎

 



 共栄区は横道から発展していったのは再三記した。理由は簡単で、水があるかないかである。市民病院周辺の平、鍛冶屋平はどこも水がまったくないことに苦労した。
  林與八さん(林進さん)が上の平らに家を建てたのは大正元年の頃であるが、当初は今の若森継男さんと若森究さんの間にある井戸を掘り、そこから水を運んでいた。
 それではとても不自由ということで現在地から人を頼み、井戸掘りを始めた。今とは違って人力でひたすら水が出るまで掘るのである。危険である。座布団を頭にしばりつけ、上部からの落石から身を守った。29メートルまで掘ったところ、牛乳のような色をした濁った水が染み出てきた。これで何とかなると思ったが神谷池の水位が下がると水は出なくなる。
 そこで考えついたのが天水井戸である。地面に深い穴を掘り、赤土に石灰を混ぜ、団子にして叩いて壁に貼り付けるのである。これで水漏れが防げた。この穴に、屋根に降った水を流し込むのである。ごみが入る、ぼうふらもわく、雨が降らないとなくなるということはあったがそれでも画期的な方法で、これを生活用水として利用することになった。上の平に住む家はどこの家でも、天水井戸を持っており、そのことで入植戸数が増えていった。
こういう状態は戦後も長く続き新聞やテレビにも取り上げられたものである。雨が長く降らないと飲み水もなくなるので、消防署に頼み、タンク車で水を天水井戸に入れてもらったことを覚えている。
  農作物でも雨が降らないと不作になり、陸稲もいい成績を収めることが出来なかった。それで栗栽培ということになったのである。

(今も現役、與八井戸、共栄最古参)