共栄物語
 

平成15年11月24日発行
<<No15>>
 <共栄区史編纂委員会>
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 古野ったゑさんの話T 暗渠排水のこと
 私は明治四十三年の生れで八十二才、昭和四年に結婚して蛭川からここへ来ました。
 義父の治太郎は西濃の横蔵の人で、明治十八年生れ、横蔵寺のミイラは先祖という事でした。義母みつよは根尾の人、明治十六年生れで二つ年上です。福島の炭問屋に雇われて、柿外で炭焼人夫をしていました。大正元年、治太郎は二十七才の時、子供を四人つれてここへ来ました。その時分は坂本駅はまんだないもんで、大井から荷物をしょったと言っていました。はじめは出づくりで田植だけしといて、あとは時々来るだけで、柿外で炭焼きをしていました。長男で私の主人の周一は、母方の根尾で学校を出ましたが、次の妹は下の二人の子守で学校は行かず。ここに定住したのは、林さんより二年あと、大正四年です。
暗渠排水 
 一番えらかったのは暗渠排水です。米の検査員が来て、横道は地が悪いで良い米が獲れる訳がない、かやを作って炭俵作れよ、なんて情けない事を言わっせる位。ここへ来てすぐ、昭和七・八年頃やったと思います。私は綱を引っ張って、備中で作り土をくろへ寄せる、それから先掘りしていく、そうすると男衆がスコップでほうかりあげて深う掘っていく、頭が見えん位やで二m位掘った、小石が一杯あってつるはしの先がすぐ減って、星ケ見の石屋さのとこへ行って何遍も打ってもらった。二m位掘ると、一番底に土管を入れる、その上へばらすを入れる。その上へもやを刈って入れる。その上へ土をかけてから作り土をもどす、晩にゃもうへとへとになって、簡単な食事をして 早う寝る、明るうなると「もう起きにゃ祭んぞよ。」と言われる。こんねえらいことは始めて、今に行きつくかしらん、この様なえらい目せんならんにゃどうにもならん、こつんこつん掘った。これで今までの湿田が乾田になった。土が入れ替った土管を埋めた巾だけ稲が良う出来ました。その次客土、山の落葉の多い赤土を、朝鮮背板に入れて、何遍も何遍も運んだ。その次は小さい田んぼを大きょうする、あぜをならいたとこは良うできました。七反位やったと思うけど、二年でこの暗渠覧排水の工事が終わりました。このお蔭で今迄反当三俵位の所が倍の六俵も獲れる様になりました。これを見て暗渠排水をみんながやりました。始めにやったのは若森とうちの二軒でした。年貢は七反で二俵でした。大八車で四区のクラブへ運びました。山年貢はお金で、別の日に納めました。
                        (駒場物語より)