共栄物語
 

平成16年5月24日発行
<<No19>>
 <共栄区史編纂委員会>
編纂委員募集中、証言者大歓迎

栗に狂った親父の供養        林進氏の話
 『みんな俺に仏様お詰りせよ』てって言うもんで、おら栗気違いやった親父のあと継いで粟やっとるで、これが何よりの供養や、てっちゃあ言ようる。親父は武並、上の洞で百姓と大工やっとった林久吉の二男で、明治二十二年生れ、十七の時、ブラジルへ行くてって、先ず横浜へ出た。横浜で建具屋に奉公して、チャンスを狙って一年ばか居るうちに胸を病んで、うちへ戻って来た。その時修業したもんで、障子やなんか、ばばっと早う貼りよつた。もどって来てぶらぶらしとる時、鉄砲をかついでこの辺までも何遍も来た。松とびんかが、ぴぴっと生えとるだけ、駒場山は狐の遊び場やったげな。大正二年、この西山へ三人で開拓に入ったけど、二人はおいてっちまった。
始めは陸稲をやったが失敗、それから数年は野菜をやったが、これも水不足の為赤字、
富有柿もやったが、寒いもんで色が来ん、色が良うないと値が安てこれも駄目。年末になると借金取りが来る。その時にゃ小さい所は全部払って、大きい所はのばいてもらった、えらい時分は武並の兄も、お袋の親も、いろいろようやってくれたらしい。

 このあと桑の栽培を始めて赤字が無うなった。うちでは蚕は飼わん。桑の葉を売るだけ。電話なんぞ無論ありやせん、夜歩いて足立東一さまでいって、時間を打合わせといてくる。その時間までに、人を頼んで桑を摘んでもらって、蓆を縫って作った、たてに詰める。ちょう度詰めた時分に東一さの馬車がくる、東−さばっかやった。桑はやっとう詰めつくと、いきちまって蚕に食わせれん。俺は大正九年生れやけど、小さい時、まんだ桑畑があった、桑の実をもいじゃあ食よった。
始めの家
 俺んとこは共栄じゃ二番目、一番に入ったは古野の治太郎さ、根尾からおいでた、しかし古野は、冬は十二兼の方へ炭焼きに行きょうらしたで留守、一年中居ったはうちが始めて。最初の家は今の若森巌君とこの位置、そこへ古い家を買って来て建てた。水があったでやねえ、今でも井戸はのまんま残っとるら。そこから此処へ通勤しとったけど、やっぱり都合が悪いもんで、畑の真ん中のここへ、又その家を移いた。そいでこの柱見んさい、方々にほぞ穴が残っとるに。家は天井なんかありやせん、トタンの屋根で、冬は朝日が当ってくると、屋根の下についとる氷がとけて、黒い水がばたばた落ちて来よった、いろりで煮物したやつが、上ってって、トタンで結露しとったでかねえ。