平成16年11月24日発行
<<No31>>
 <共栄区史編纂委員会>
編纂委員募集中、証言者大歓迎

10月24日の区史編纂委員会の前日、新潟中越地震が発生しました。死者40名、丸4日近く生き埋めになっていた2歳児が奇跡の生存、自然ダム等改めて地震の猛威に恐怖しました。この地震の地震規模はM6.8ですが、これ以上の規模をもった地震が戦争中に起きました。このことが区史編纂委員会で話題になりました。

昭和20年(1945年)1月13日渥美湾を中心に、マグニチュード7.1の直下型地震が起きました。三河地震です。

「はって歩かないかんぐらいの地震だったそうだ。新聞発表はなかった。私は九州にいたがこの地震のことを家からの手紙で知った。」(大山歌子さん)
「河原に砂をとりに行ったら昼時分にゆすった。道は歩けなかった。四日市の防火用水は全部水が飛び出していた。」(鈴木正敏さん)
「客車に乗れないので汽車の屋根に上って逃げてきた。」(大山歌子さん)
「6区のクラブの前の道が割れていた。」
「四日市の煙突が倒れているのを見た。」(鈴木正敏さん)

これほどの大きな地震があったにもかかわらず、一切の報道はされませんでした。それは、報道管制(ほうどうかんせい)といって、政府などの命令で、事実を発表してはいけないと、禁指令が出たからです。三河地震では死者2306名でした。生き埋めも、自然ダムもあったろうでしょう。どれだけ国の援助があったか不明です。 

<大正12年9月1日−関東大震災のこと>
「母親は、トイレに入っていたのでびっくりしたとび出した。」(大山歌子さん)
「大正12年9月27日生まれだけどゆすったもんで生まれたと言われた。」(鈴木正敏さん)

 ※自然災害と共栄の関係の証言がもっと集まるといいと思いました。