共栄物語
 

平成16年8月24日発行
<<No30>>
 <共栄区史編纂委員会>
編纂委員募集中、証言者大歓迎

林進さんの話                駒場物語より
 開  墾
 開墾は最新の農法でやったらしい。三頭の馬にプラウ、西洋すきの片刃の長いやつを、付けて掘っていく、松の株がある時は、こっちの方から気合を入れて、どっどと行って引き起す。町から人が見に来よったげな。人にも頼まれて、全部では二十町歩位おこいた。起すには人も頼んだ、1宿の成木文左衛門さやなんか。

草かき
 はじめ粟苗と梅苗を植付けたが、梅は値の変動が多いので粟にしぼった。桑の生産を次第に粟に切り換えて、昭和四年頃には、粟畑は八町歩に拡大した。
草取りは子供ばっか、夏休みは薄暗いうちに起こされて、進から上は来い、早うこんと飯食わせんぞ、てって言われて草かき。兄二人と姉とわしと四人や、わしは小学校の一年生時分からやりょった。小学校の一年や二年で仕事やっとる者はおりやせん、学校で恥ずかしょて先生によう言わなんだ。一年ぼっこには草かきは重とて、草なんかかける様なもんやない、身体中で草かきを振りあげて草を掘りょった。九時頃までやって朝飯、おかずなんかありやせん、味噌位で七杯も八杯も食よった。
 昼から親父は昼ね、おれんたは水あび、戻ってくると又草かき、よう使われた。八町歩の粟畑の草を四人の子供で取っちまよった。草を見ると全くうんざりしょった。
 栗拾いは十人位人夫を頼んだ。仕事の無い時分やで人はいっくらでもあったもんで、ええ良う働く人ばっか頼めた。人夫を多く使うもんで、大して残らなんだみたい。

栗苗
 粟苗はもうかった。田口時爾さは蛭川から昭和二年においでて、親父と一緒に粟をやらした、粟畑は四町歩位あった。二人で粟苗の生産を共同でやって、大々的に出荷しょった。あんまり好調やもんで田口さんは娘に苗子と名付けらした位、苗ちゃんは昭和八年頃の生れやないかな。