共栄物語 
平成15年9月24日発行
No3
 <共栄区史編纂委員会>
古い写真、手紙はありませんか?


林 進
  No1
 共栄区からも多くの若者が戦地に赴いた。その様子について断片的にしか聞いていないのですが、幸いにも林進さんは、自分自身の体験を下のように書いて下さった。

 忘れもしない昭和十九年七月現地召集令状を受け取った。刑場へ連行される羊以下になさけない気持ちの吾身であった。戦況は吾方に不利の連続であった。任地は北満、虎林線の平陽九六〇歩兵部隊であった。連日、酷暑の北満の草原で、血の滲むような練兵の明け暮れで、関東軍は陸軍の練兵場だ、と古兵にどなり散らされ、連日ビンタの雨霰。なさけない姿の吾身をやりきれなく思った。
 汗だく、汗だくで戦闘教練をしぼられている時、ふと眼下を見ると、満人達が沼で水泳している。あ〜満人に生れてくればよかったと、吾身の日本人をのろった。
 何でもないようなことでビンタを食う。古田とかいう同年兵(おとなしい弱々しい人であった)は、何でもないようなことに、古兵に散々なぐられ鼻の骨を折り、内臓を破裂したのだろう、次の日に死んでしまった。シカバネ衛兵に立ったが、なさけないやら、やりきれないやらで泣けてきた。
 半年位たってはげしい練兵がたたり、練成隊という故障者の隊に入れられたが、内務のきびしいことは全然変らない。時々慰問団が来る
が、吾々初年兵には何も面白いことばない。連日追い回され、どなられているので、神経がマヒしているのか、正常な人間でなくなってしまう。ただ一日でも健康であればよいことを願っているのみ。
 十九年十月に勃利の自動車、戦車の整備学校に入る。戦争も末期になり、敗戦模様は上官も吾々一兵卒もひしひし身に感じている。だから六か月間位入学していたが、お互いに教える気もなく、習う気もないような状態で、ぬけがらのような整備兵が数百名出来上った。
満鉄時代の林進さん、軍服姿は焼却してない。)