共栄物語 

平成15年9月24日発行
No4

 <共栄区史編纂委員会>

  林 進  No2
  昔ラッパの経験があるので、ラッパ手を志願して、だいぶ楽をさせてもらった。ラッパ手十名位、古兵のラッパ手に引率されて、営門を出て一〇〇米位は、ラッパを吹いていくが、それから先は無礼講。山の中へ這入り、朝鮮酒、アメなどと物々交換して食べ、一、二時間故郷の話をして楽しんだものだ。
 いよいよ敗戦間際の二十年四月頃だったか、石頭(?)の屯営を出発し、敦化の近くの山中に陣地構築のため出発した。身に四〇キロ余りの装具をつけるが、雨水が浸みれば五〇キロ位になる。山、川、泥道を毎日四○キロ位行軍し、途中天幕野営したが、吾等、初年兵は天幕の継目の悪い所に寝る羽目になるため、朝になって目をさますと、昨夜の雨で全身ぐしょぬれになり、また五〇キロ位の装具を身につけ、気力を振りしぼって行軍をしたもんだ。
 途中、沙蘭鏡辺りで日本人開拓団にあった。子供が泣いていた。聞けば、若い男は皆召集されて、いないという。あの時見た開拓団員はおそらく無事に帰国出来なかったろうと推察し、胸が痛い。かくして数日野営し、数百キロ歩き、目的地へ着き、陣地構築すること一か月位、同僚は大勢たおれた。そしてまた原隊へ帰った。一か月たって急きょ南満へ転進、安東の競馬場に屯営す。ここでも毎日一キロ米位離れた岩山で陣地構築したが、つらさで鮮人兵が逃亡したため、安来の街中を員数捜索に行ったもんだ。敗戦と共に吾も逃亡。身をかくす。シベリヤ行きは危うく免がれた。だから軍隊の写真などは何もない。
 それから一年間が死と隣り合せの連日であり、「敵中横断三百里」「流れる星は生きている」そのものであり、よく生きて帰って来たと思っている。やれやれと思ったか、疲れがドッと出て栄養失調で視力が減退し、体調も極度に悪く、回復するのに数年費やした。この体験は貴重なもので今後いかなる苦労にも耐える自信がついた。
 無念の死を遂げた多数の同僚の冥福をお祈りする。

「一粒の麦」(軍短協・平和を願う会「元軍人軍属短期在職者」中津川地区支部連合会
発行より)