2001年のこんぺいとう
遂に、新しき詩歌の時は来たりぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。
うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。
伝説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帯びぬ。
明光はまのあたりなる生と死とを照らせり、過去の壮大と衰退とを照らせり。
新しきうたびとの群れの多くは、たゞ穆実なる青年なりき。その芸術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた偽りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口唇にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思想は幾多の青年をして殆ど侵食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。
われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの声に和しぬ。
これは藤村詩集の序として掲げられたものですが、その島崎藤村の生家は、うちから車で十分ほどの所、木曽川を挟んで対岸にある山を上り、少し奥まったところにあります。 『まだ上げ初めし前髪の』の初恋、『名も知らぬ遠き島より』の椰子の実、『小諸なる古城のほとり・・・・・』と、ここまで書けば、ああ、あの藤村かと思い起こされる方も多いでしょう。さらに ―――― 木曽路はすべて山の中である。―――― で始まる
『夜明け前』
の一行はあまりにも有名です。
坂下はちょうど長野県と岐阜県の県境で、長野に向くにも岐阜に向くにも、木曽川を渡らねばならならないのですが、明治のころは筏の渡しで、昭和七年、両岸の人々の大きな期待を受けてようやく架けられた橋は、藤村命名により『弥栄橋』とされたそうで、今ではそれも架け替えられてニ代目の弥栄橋となっております。当時の橋には、藤村揮毫による銅版彫刻が掲げられたそうですが、第二時大戦時の金属供出で失われたと伝えられます。
筑馬県第八大区五小区馬籠村(現、長野県木曽郡山口村神坂馬籠)―――――
生家のある集落
ですが、かつては木曽街道の宿場駅として交通の要所であったその地も、鉄道は木曽川を上流に向かって左岸伝いに坂下町に廻り、国道は木曽の山裾伝いに右岸を走る。高く山へ踏み込んだ旧街道はそのどちらからも見放される形となり、かえって開発を免れたことで、当時の面影をそのまま残す町並み保存の観光コースになって、次の宿場"妻籠"まで古いたたずまいを見せてくれます。
人々の交流が今のように広範囲でなかった昔には、そこから坂下に嫁を迎えたり、また嫁いだりして、町内にも縁のある人は多く、風俗・習慣などもほとんど変わりがありません。
そんな土地柄であるから、どうも藤村を読む時は、遠き詩人への思いというより、失礼を承知で言わせてもらえば、となりのおじさんを見るようなかえって冷静な思いがなくはない、まさにいい噂も、悪い噂も聞こえてくる地元なのです。
私にはその人が、春の人と映る。けれどもそれは両手を上げて大喜びする春でなく、ぽかぽかお日様を受けて花咲き乱れる春でなく、長い凍てつく冬のはてに、やっとたどり着いた春。待ちに待った春であり、まだ少し重く湿った空気の漂う早春の人。
さすが内外に知れ渡る文豪と呼ばれるような人は、生い立ちからして私たち凡人とは違っております。生家は古くから馬籠宿の本陣、庄屋をつとめる家柄で、明治十四年、満九歳の時、三歳上の兄とこの地を離れ、長兄に付き添われて木曽街道を徒歩で上京、親類・知人宅などを寄宿先にして勉学に励んだそうで、すでにその前七歳にして論語の素読をしたとあります。
そんな幼いうちに離れてしまったこの地ならば、馬籠にはさほど思い出も執着もないのではと思いきや、藤村は生涯、親を思い、家を思い、この地を深く気にかけていたようで、帰郷して再び住まうということはありませんでしたが、維新後の制度改革、身内の相次ぐ不幸のはてに没落して一旦は人手に渡った生地を、後に買い戻しております。
その思いは藤村の童話集『ふるさと』にもよく現わされています。私がへたな解説を書くより、『ふるさと』を読むと、狭い山間ではあるが、人々のぬくもりのあるあたたかいふるさとの情景を思い浮かべることができるでしょう。先の序文とはまったく雰囲気を異にした藤村おじさんが、小説『夜明け前』に出てくる馬籠とも、またちょっとひと味違う当時の馬籠をやさしく語ってくれます。
父さんのいなかは木曽街道の中の馬籠峠というところで、信濃の国のいちばん端にあたっていました・・・・・・・村のはずれまで行きますと、そのへんにはびっくりするほどの大きな岩や石が田んぼの間に見えました。そこからはもう信濃と美濃の国ざかいに近いのです。父さんのいなかは信濃の山国から平らな野原の多い美濃の国のほうへ降りていく峠のいちばん上のところにあったのです。(ふるさと第一章 四・水の話)
どこの家でも板で屋根をふいて、風や雪をふせぐために大きな石が並べて屋根の上にのせてありました。なんと、石をのせた屋根は山の中の住まいらしいでしょう。山には大きなひのきの林もありますから、その厚いひのきの皮を板のかわりにして、小屋の屋根なぞふくこともありました。雪がくればそういうおうちの屋根も埋まってしまい畑も白くなり、竹やぶも寝たようになってしまいます。・・・・・・美濃の中津川のほうからいろいろな物を背中につけてきてくれるのも、あの馬でした。(第一章 七・雪は踊りつつある)
父さんのいなかには「どうねき」などということばもあります。もう始末におえないような人のことを「どうねき」と言います。こんな言葉は木曽にだけあって、ほかの土地にはないだろうかと思います。それから「わやく」というようなことばもあります。「いたずらな子供」というところを「わやくな子供」などと言います。ふるさとの言葉は恋しい。それを聞くと、父さんは自分の子供の時分に帰って行くような気がします。お前たちのお祖父さんでも、お祖母さんでもみんなことばの中に生きていらっしゃるような気がします。(第三章 九・ふるさとのことば)
父さんは十の年まで、お祖母さんのひざもとにいましたが、その年の秋にお祖父さんの言いつけで、東京へ学問の修行に出ることになりました。
この東京行きは、父さんが生まれて始めての旅でした。父さんが荷物の用意と言えば、小さなおもちゃのかばんでした。それは美濃の国の中津川という町のほうからおもちゃ商人が来た時に、お祖母さんが買ってくれたものでした。
「お前が東京へ行く時には、このかばんへこんぺいとうをいっぱいつめてあげますよ。」
とお祖母さんは言いました。父さんもその小さなかばんにこんぺいとうを入れてもらって、それを持って東京に出ることを楽しみにしていたようなそんなちいさな時分でした。(第六章 一・少年の遊学)
他にも、この『ふるさと』の中には、どんど焼きの話し、蜂の子の佃煮、
ごへいもち
、やきぐり、柿の実、お腹の痛む時飲まされた御岳百草丸の話しなど、ちょうど私達が子供の頃まで、この地方に伝わっていた風習や暮らしが書かれていて、藤村の体験したものとさほど違いのないことにも親近感を覚えます。
もちろん、石を乗せた桧皮ぶきの屋根や、馬の往来などもうとっくになくなってしまっていましたが、遥か遠く、けれどもくっきりと、映像はこの目に映るようです。
今では馬籠から中津川にも車で十分たらずで出てしまいますが、"美濃の国の中津川という町のほうからおもちゃ商人がきたときに" というような書き方はいかにも、ひと山超えた遠い町からハイカラをもたらしてくれるような、当時らしい距離感があって面白いと思います。
山と山の重なりあった向こうのほうには、お祖父さんの好きな恵那山がいちばん高い所に見えました。お祖父さんも、お祖母さんも、さようなら、馬籠も、さようなら。恵那山も、さようなら。(第六章 五・さようなら)
そう言って旅立って行った藤村でした。
そんなやさしい話しも語るが、藤村はやっぱり厳しい冬を乗り越え、やっと訪れた早春の人。
藤村についての作品評は、難解、人物評は少し気むずかしい人、というのが多くの評論に見られるところですが、それは恵那山の山懐に抱かれて育ったものの気質として、朴とつ、質実剛健、くそまじめ、がんこ、初対面の人にはとっつきにくいなどと、古くからよく言われる、そんな土地柄気質の表れではなかったかと、少し贔屓目にも見たりします。
本名は春樹、『春』という小説もあるし、詩や散文の中にもことさら『春』という言葉は多く見られます。が、これは単に『春』という語を多用しているからその印象が強いというだけではなく、藤村が生きた時代に、重く暗く長い冬が立ち塞がっていたせいではないだろうか・・・・・藤村の詩や小説がそういう過渡期の時代背景をみごと伝えてくれるからではないだろうかと思うのです。
明治は維新後もこの地にとって、まだ重く暗い冬の時代。藤村の目覚めた表現の世界もまた、まだ重く暗い冬の時代。中央政治は、今のようにこんな山奥まですぐには届かず、古い道徳・因習は依然として残り、しかし都会ではすでに多くの政治家、文人が新しい時代の幕明けを唱え始めていた頃・・・・・小走りすればあっという間に集落のはずれに出てしまうような小さな村から、広い都会に出た藤村が、『春よ春よ』と聞けば聞くほど、そこには残してきた田舎とのギャップ、『春まだ浅き』の思いをいっそう深めることになったのではないだろうか・・・・そんな長い苦渋の冬が、多くの詩や小説へ向かうエネルギーとなり、書くことでようやく手に入れた春。けれどもそれはまだ満面の笑みで謳歌する春ではなく、冷たい氷がゆるむ程度の春のきざし。その書くということにおいても、まださまざまな試みが行われていた時代。
―――― 「春」という言葉一つでも、それが活きかえってくるとことを知ったときの私の深いよろこびは・・・・・蕉門の諸詩人が言葉の感じ、鋭さ。「わび」、「さび」、「ひびき」、「うつり」、「おもかげ」、「しおり」、それから「細み」などの言葉の感情と、その陰影とをみよ。
旧い言葉を壊そうとするのはむだな骨折りだ。ほんとうに自分らの言葉を新しくすることが出来れば、旧い言葉はすでに壊れている。この考えが私を導いた。
詩は日本の言葉には適しないとさえ考えられた時代もあった。和歌と俳句の形式のみがわずかにそれに適すると考えられた時代もあった。私たちが出発した当時の言葉の世界というものは、そんなに薄暗く、狭苦しいものであった。―――――
( 『わが人生観 島崎藤村-孤独と漂白』---創作の周辺 言葉の術 大和書房 )
その薄暗く、狭苦しい世界を抜け出た時、藤村は高らかに詠う。藤村詩集の序文は後半にこう続く。
詩歌は静かなるところにて想ひ起こしたる感動なりとかや。げに、わが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
なげきと、わずらひとは、わが歌に残りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に励まされてわれも身と心とを救ひしなり。
誰か旧き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。
生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過ごしぬ。
芸術はわが願ひなり。されどわれは芸術を軽く見たりき。むしろわれは芸術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻とはなれり。われは今、青春の紀念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。
そうして編まれた詩集の中に、"春"は無数にちりばめられる。
春はきぬ
春はきぬ
さみしくさむくことばなく
まづしくくらくひかりなく
みにくくおもくちからなく
かなしき冬よ行きねかし
(春の歌 春はきぬ 抜粋)
たれかおもはむ鶯の
涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の
花にうつろふ夢の間と
あゝよしさらば美酒に
うたひあかさむ春の夜を
(春の歌 たれかおもはむ 抜粋)
人の命の春の夜の
夢といふこそうれしけれ
とても見るべき夢ならば
われ美しき夢を見む
(四つの袖・十一)
重く冷たい冬あっての春、長く暗い闇あっての夜明け、その重圧をばねとして時代を押し開いた隣村のおじさんの偉業を、龍司はこれっぽっちも知らなかったことだろう、藤村も蕪村もみわけつかなかったろう?
幼い頃から進んで学び、厳しい創作の世界に苦闘した藤村を、同じ山を見て育つもののひとりとして、これくらい知っていたって損はない。どのみち、創作の世界において苦闘はつきもの、その大いなる創作努力を見習うがよし。
さーて、龍司が恵那山にさよならを言う時は、藤村にあやかって、お母さんも中津川でかばん買って、その中にこんぺいとうを、いっぱい詰めてやろうかね。
2001年・春
独り暮しを始めて2週間がたった。コンビニ弁当もそろそろ食べ飽きてきた龍司は、引越した時に持ってきた台所用品の入った箱をようやく開ける気になった。すると・・・・・・鍋やお玉の中に混じって、箱の隅に青い小さなリュックサックを見つけた。妙に重い。開けてみると、中にはこんぺいとうが一杯詰っていた。
(おいおいおい、なんだおふくろのやつ、こんなばかなことばっかりしやがって・・・・・冗談は話しだけにしとけよなぁ)
龍司はそう思いながら、こんぺいとうをニつ三つ、口の中にほうり込んだ。静かな部屋に、ぼりぼりとこんぺいとうの砕ける音が響いた。ひとりの寂しさをより際立たせる音であった。甘かった。なんの苦もなく、わがままを言っていた頃を、いやでも思い出させる甘さであった。母の笑顔が、すぐそばにある甘さであった。
(ああ、藤村は俺よりもっと小さい時に、家を出たんだったな・・・・・・)
三つ四つ、ほうばるたびに、胸の中に熱いものが込み上げてきて、誰もいないのに照れ隠しに、その青いリュックを背負おうとした。が、どうにも小さ過ぎるそれは、ようやく片腕に引っかかるのみで、龍司は目がねの隙間から、ひとすじ熱いものを拭いた。
(俺も親不幸だよな。心配ばかりさせたもんなあ、うちのめしが食いてぇ・・・・・うるさい親だと思っていたけど、あのBGMがなくなってみると、なんだかものたりないなぁ・・・・・・明日から、もう少し真面目に頑張るか・・・・・)
そしてこんぺいとうを食べながら、母にメールを打った。
『おい、こんぺいとうなんか、あんな所に入れるな。・・・しかたないで食ってやる。』
相変わらずのにくまれ口であった。
( 吉本龍司物語・旅立編 ―― 涙のこんぺいとう )
これ以上書くと詩歌を通り越して演歌の世界になりそうだから止めておく。
まあ、頭にはせめて一編の詩でも詰め込んで ――― 将来、他の地に出て、友人や上司と春のひと夜を飲みあかす時、ふるさとネタにこれくらい並べりゃ、「藤村とは遠い親戚だ」くらい言ったって誰も疑いやしないよ。・・・・・こんなことまで教えるなんて、お母さんもかなり"わやくな親"だよね。
お母さんの春も夢の間に過ぎてしまったが、龍司の春は今まさに始まらんとす。どうせ短い一生ならば、われうるわしき夢の道を、悔いなく真っ直ぐ行くがよし。
今宵はまだ寒き春の一夜、花にうつろう夢の間に、春の人を龍司に綴る。
げに母のたわごとこそ、拙き身の、おぞき苦闘の告白なるが、きたるべき2001年の春に食す、こんぺいとうの、熱き想い出とならんことを・・・・・・・
藤村の童話集2 ふるさと 島崎藤村 筑摩書房
わが人生観 島崎藤村 大和書房
島崎藤村詩集 西脇順三郎編 白鳳社
年譜参考 文芸読本 島崎藤村 河出書房新社
平成11年3月22日
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