焼けないバーベキュー
JR坂下駅から、四、五キロほど離れた高台に、坂下町では唯一の景勝地、椛の湖(はなのこ)があります。周囲2キロほどの湖水の廻りには、オートキャンプ場、バンガロー、総ひのき造りの風呂なども完備され、春から秋にかけて多くの人が訪れます。
もともとは田畑への引水を目的としたもので、農業用溜池として昭和25年起工、33年に完成。戦後間もない頃のことで、工事の始まったばかりの頃は今のような重機もあまりなく、もっぱら鋤、鍬の人海戦術による難工事だったと聞いております。
これを観光利用もしようと湖名を募集し、あたりは椛の木(はなのき)という、秋になると紅葉のひときわ美しい落葉樹の自生地であったためその名をとって、椛の湖と名付けられたそうです。その年の気候にもよりますが、大木の椛の木がベストの状態で紅葉を迎えた時には、まさに"狂乱の燃える秋"を見る思いがします。
この地からは古墳や縄文土器も見つかり、工事を前に発掘調査なども行われ、古墳からは若い女性と思われる人骨も見付かったという椛の湖遺跡でもありますが、それよりも、今40代、50代の人にとっては、全日本フォークジャンボリーの開催地と言ったほうがピンとくる方もおられるかも知れません。
椛の湖へは、遠足やキャンプなどで、私も子供の頃から何度も何度も足を運んでいますが、一番古い記憶は保育園の時の遠足で、まだ赤土むき出しの斜面を泥んこになって登って行ったことです。少し歩けば靴底に泥が厚く付いて重くて歩けなくなってしまうほど、粘り気の多い土質で、水を満々に湛えた湖面と赤土の風景、それをとりまく山々の緑。それ以外に何もない椛の湖。今からは想像もつかない殺風景な姿でしたが、フォークジャンボリーの開催前後から徐々に整備され、今のような姿に変わって行きました。
そのフォークジャンボリーは、昭和44年から46年にかけて三回、いずれも8月、はしだのりひこや吉田拓郎、岡林伸康、六文銭、上条恒彦、かまやつひろしなど、多くのフォーク、ロックシンガーを招いて行われました。
湖畔に続く一段高い面に、今も野外ステージと広場がありますが、もとは丸山という小山を半分切りとって堰堤の盛り土に使った跡らしく、当時はそれをブルトーザーでならして、ステージは築山にやぐらを組んだ程度のものでした。
昭和44年二千人、翌45年八千人、三年目の46年には二万人(二万五千という説もあり)の若者がその小さな湖に集結したと言われ、その頃の坂下町の人口、およそ六千人ですから、実に人口の三倍以上もの人が押し寄せたわけで、騒ぎにならないわけがありません。
開催日の一週間ほど前から、ラッパズボンやGパン・Tシャツ、ロングヘアーに頭から首から、思い思いのアクセサリーをじゃらじゃらと付けた若者が、ギター担いで、続々と現地入りしました。全国から押し寄せた若者はここへ来る前に、すでに何日間か旅をしているわけで、髭は伸び放題、徒歩や野宿も当たり前の人が多く、お世辞にもカッコイイとは言えませんでした。
電車で来た人も中津川フォークジャンボリーと銘打ってあったため、ふた駅前の中津川で下車した人が多く、そこからでも20キロ以上の道のりを疲れきった様子でだらだら歩く姿に、当時の大人達の言ったには、"道を掃除して歩くヒッピーの行列"= スボンの裾が箒のように道をこすって歩く・・・・・・もちろんバイクで乗り付ける者もいて、とにかく前代未聞の光景がこの坂下町に溢れたのでした。
私はその頃小学校の高学年くらいで、現地は見ておりませんが、中学、高校生の中には、こっそりと周辺の林をまたいで会場に侵入した者もいたようです。もちろん正当に入場しても、人の山で見られるようなものではなかったと思います。
想像以上の人がこの小さな町になだれ込んで来た訳ですから、まず問題になったのが、食料品や酒類。あらゆる店の棚がすべてからっぽになるほど(年代ものの缶詰類まで全て売り尽くして、あとで誰かが笑ったとか笑わないとか)で、食べれば出るのが人の摂理、これも大人の言うには、所かまわず立小便はするは野糞はするは・・・・・トイレの設備などはほんのわずかだったのです。会場に入りきれない若者が周辺に溢れて騒ぐ、平気で畑を横断する、作物を荒らす、びっくした牛は乳を出さなくなるはと、それはもう各地から苦情が相次いで、ついには遊泳禁止になっている湖水に飛びこんで水死者も出るなど、若者の無軌道ぶりが問われ、これ以後は中止となってしまいました。が、中止に至った原因はこういう外圧ばかりではなく、ジャンボリーの運営方法に疑問を投げかける内部の批判もあったようです。
どう考えても、あの椛の湖では二万人を収容できるほどの広さはありません。しかも前日は大雨に見舞われたそうで、真夏の雨上がりのぬかるみの中、若者たちは自分の座る場所さえ確保できずに、人・人・人でむせかえる中、ある者は中腰で、ある者は立ったまま長時間待たされ、そもそも若者たちが自ら作り上げる若者の祭典という触れこみで、プロ・アマ入り乱れての競演を期待してきた者が多かったそうですが、歌うつもりで遠路を楽器担いでやって来たアマチュアはステージの下で足止め、プロダクションに仕切られた演奏会、風に散るスピーカーの音、設備の悪さに感激を得るような音楽会にはならなかったと、当時このイベントにやって来た若者の一人であった北山修は、著書 『さすらいびとの子守唄』(角川文庫)の中でその疑問を投げかけております。
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