ささやかな僕の母の人生
高校の担任の先生と三者懇談が終ったあと、龍司とふたりで学校の坂道を歩いて来て、こういう時は一般に、うんと先行くか、うんと後行くか、とにかく親と一緒に並んで行くことなど照れてしないらしいのですが、そういう期待と不安をみごとに裏切って、龍司の場合はぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、話しながら一緒に歩く。
「結局、勉強はやらんでもいいっていう話しやったね」
「何言っとるの、逆じゃん。」
「えー、そうやったか?」
「そうさあ、最低やっておかなあかん事は、きちんとやっておく!」
―――――― (ここで定番のあのセリフを龍司、かなり芝居がかった口調で)
「つまり・・・・・・ 耕すってことなんだね」
「そう、耕す。
耕して、耕して、額に汗して、鍬の柄が折れてもだね・・・・・・」
―――――― (私も負けじと思いっきり感情をこめて・・・・・)
「おい、どうでもいいけど、もう帰りの電車、1時間くらいあとしかないぞ・・・・」
「しかたない、じゃぁ、喫茶店に寄ってケーキでも食べて行こうか」
「おっ、それいいなー」
進路もまじめに考えないで、先生の心配して下さる声にも、適当に答えるこのどら息子は、こうして道々おどけながら、深刻のかけらもなく、その軽い調子に乗せられて、この子はこんな性格がとりえなのかも、と、つい気を許してしまう親ばか。
( こんなところ友達に見られたら、
『昨日は奇麗な女の人と嬉しそうに歩いていたじゃん?』
なんて冷やかされるぞー! いいのか? なんて、内心思いつつね。
えっ、誰もそんなこと思わないって? ふーんだ! )
駅前のケーキ屋さんの奥で、コーヒーとケーキを注文して、
「つまり、そういうこっちゃね」
「いきなり何よ、どういう事?」
「今、やらないかん事は今しか出来ん、だからそれをまずやる。それをやっとると、忙しくて勉強やる暇がないという事」
「へえー、そうなの・・・・・ 」
( 別に始めて聞く説でもあるまいに、さも納得したように、相槌だけはしっかりと打っておいて )
「ねえ、ねえ、ちょっとそれ、どんな味? 少し替えっこして」
龍司の理屈など万と聞いてきたから、そんなことよりも、私は龍司の頼んだケーキの方が気になっている。私のを少し分けて龍司の皿に乗せ、そのフォークの帰り道に龍司のを少し頂く。
「結局お母さんは、何でも味見したがるなあ」
「だって、それが好奇心というものよ。生きることの基本は食べることで、食べることに興味を失ったら面白くないじゃん。勉強も食わず嫌いじゃだめ。学校の勉強だって、興味津々でいかなくっちゃ・・・・・
わっ、どっちもそれなりに美味しいけど、お母さんはどちらかと言えばこっちのほうが好みかな・・・・・・
つまり、いろいろ味わってみて、これはこんな味がするのかって、体験しておけば、意識してなくてもどこかで役立っている時があるの・・・・・いろいろ食べて、判断力を養うために情報を蓄えておくことが大切。
比較、検討、取捨、選択。そのための豊富なデータベース作り。ね、学校とはそういうところなの」
この親子、いろいろ語り合っているようで、たいがいいつも同じようなとろこをぐるぐると廻っている。
最近、メールを頂いたりする中に、
「素晴らしい子育てをしてみえますね」
とか、
「子供の心がわからず、接し方に戸惑っていている、親子が自然体でつきあう姿が羨ましい」
とおっしゃって下さる方が多いのですが、こんな調子だから、私はこれが良い子育てだとは思ってもいないし、そもそも子育てという言葉を使うのがなぜか後ろめたい。育てるというより、共に育ちつつあるというほうが似合ってる。
親だからといって、威厳を持って、かしこまって教えることもしないし、子供の神経に気遣うこともしない、わりとずけずけとものを言う。子供に遠慮なんかするもんか。
「お父さんにあとから叱ってもらいますからね」
なんて、そんなまどろっこしいことも言ってられるか、私がすぐさまその場で怒鳴る。
叱咤激励が時に度をこえて罵り合いになることもあるが、それは家庭の中だから許されることで、他人に対して、そんな言葉は使ってはいけないという事くらい、きっとわきまえてくれていると思う。悪い見本もちゃんと家庭の中にある。
「子育てって本当に難しいですね」
って話す人は、ひょっとしたら、自分のだらしなさやふがいなさや、ぜったいさらけ出さないように、良いこと、正しいことのみ教えなくちゃと、真面目に考え過ぎてる人じゃないかしら。
ただでさえ生きにくい世の中を、家にいて気を使ったら、どこで心休めたらいいのだろう。親も子も、のんびりと、だらーりと、自分のだらしない姿、弱い姿を出しあって、時には涙も見せ合って、でもやる時はやる。力一杯やる。徹底的にやる。そんなメリハリのある暮らし、これもひとつの処世術。
私達夫婦の暮らしは、生活規範にはならないけれども、子供たちがそれぞれ家庭を作るときの、比較・検討・取捨・選択の参考資料ね。良くも悪くもね。あーいう親にはなりたくないと、思ってくれてもいいよ。今よりもっと素晴らしい暮らしが出来たら、それでもいいじゃないか。自己充実感、達成感をどれだけ味わえるかという意味でね。
要は一日終って、お布団の中に入った時、体はぐったりと疲れていても、
「あー、今日も一日よくやった、いい一日だったなー」
という満ち足りた気持ちで眠りに就ける日が、どれだけあるかってこと。欲を言えば、こういう時、お布団が干したばかりでまだかすかにお日様の匂いが残ってたりしたら最高。
ささやかではあるけど、幸せか否かの境は、案外こんな単純なことだったりする。単純だけど、かなり意識しないとつかみ難い。少なくとも、そういう我が家流の、価値判断の基準だけは、しっかり示しておいてあげたい。
人の心のありようは、ほんのささいな事で、均衡を失うやじろべえ。バランスは自分で取らなくちゃならない。支点を見定める確かな眼を養うのは、結局自己研鑚しかない。
何でもいい、何かで自分を磨くこと。プログラミングも、それ自体が目的でなく、自己研鑚の一手段なんだ。と、お母さんは思っているけど、龍司は何を考えて、そんなにもくもくとキーボードたたいているんだろう。
休日を、一日ソフト作りに費やして、この日もまた飽きずに古い歌を聞いている。
♪ 忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな、 僕の 母の人生〜 ♪
さだまさしの『無縁坂』をバックで小さくかけながら、一緒に口ずさんでいた龍司、 そのあと、両腕をあげてのびをしたと思ったら、わざと私に聞こえるように、パソコンにむかってぼやいている。
「あーあーあー、ちっともささやかじゃないしよぉ、
こんな『母のたわごと』なんて本作っちまってよぉ、
しかも全国に売っちまってよー
♪ ささやかじゃない、ぼーくの、母の人生〜 ♪ 」
うううん、これこそが、ささやかな母の人生。ささやかで、ぶざまだけど、精一杯のね。
良い見本も、悪い見本も、この家の中にある。
昔から龍司はすぐ私のまねをすることが多かったけど、ほらね、最近『龍司の小たわごと』なんてコーナーなんか作ったりして、あわよくば本にして売り出そうなんて考えているんじゃないのかぁ? 甘いっちゅうの。10年、いや、20年早い!おまけに誰も買わねぇっての。
まあいいや、そこでせいぜい修行を積んでくれたまえ。考える主体は龍司。ささやかな母の願いは、母には出来ないドラマチックな人生を生きて見せてくれること。
とにかく自分を磨くこと、気負わない、意地張らない、照れない、めげない、くよくよしない、掛け合い漫才の迷コンビで、もうしばらく、肩を並べて歩いていこう。龍司がも少し大人びたら、ちまたで流行りの、年上の彼女に間違われることを祈りつつ。
―――――― よーし、お母さんも、益々女を磨くぞー!!・・・・・
(自称美人ママより)
最近各地で面がわれたので、ぷっ と吹いた人、何人かいそうだなぁ・・・・
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