名古屋のモナリザ
前章で、女を磨くぞー! と言って思い出したことがあります。
高校の時、国語の先生が美術教師もかねていたせいか、今思うと、どちらが本業だったのかよくわかりませんが、時々妙な宿題が出たりしました。
たとえば、レオナルド・ダ・ビンチの、モナリザの絵を見て感想文を書けというの。
随分モナリザの複製とにらめっこしたけど ――――― 浮かばない、どう書いていいのか浮かばない。
本物を見たわけでもないので、いまいち感動もないし、さんざんもたついたあげく、多分、女性美とは何か、というような視点で書いた記憶があります。まあ、差し障りないところで、いつもおだやかに微笑んでいられるのは、女性の理想像であるとかなんとか・・・・・
16、7歳の眼に映るモナリザはどう見てもおばさんで、その微笑の影にも、いくつか憂いのあるだろうことは、なんとなく感じても、その憂いのなんたるか、思い計るまでは至らず。微笑み七分、憂い三分、そのバランスで体勢を保っていることが、絵全体のバランスかなと・・・・・・
正直言ってモナリザがそんなに美しいとは思わなかったけれど、おばさんになっても美しくあるための条件は、なにより微笑みを絶やさないでいられることではないだろうか、モナリザの美しさは、落ち着いた教養を感じさせる優しい微笑みと、全体のバランス。
などと、はっきりと覚えてはいないけど、つまりこの程度にまとめておけば、作文としての出来はまずまず及第点かな、という打算も含めて。
若さが消えても、いや、そうなった時こそ美しくあるためには、顔を磨くのではなく、心を磨くのが大切で、心を磨くとは、常に探求心を持ち、生き々と何事にも敏感に反応する心でいることではないのか・・・・・・
美形の土台を持ち合わせていなかった乙女心は、可愛らしい容姿でいる友がうらやましく、せめてもう少し年齢を重ねた時には、モナリザのように、黙っていても内面から溢れるような美を備えていたい。そういう少し不謹慎な考えで、詩や小説を読んでいたふしもありました。早くから老後を考えていたわりには、あまり身になっていない。いや、美になっていない。それよりも、今思うに最大の難点は、モナリザのように無口ではいられない事。
その頃の女生徒のボキャブラリーには、ガングロも美白もなかったし、ミニスカ制服もなかったから、おしゃれには皆わりと無頓着でいた。
どこかで他の生徒に差をつけようとする子は、逆にスカート丈を長くして、パーマか脱色くらいはあったけど、輸入インコのような色彩もまず見かけなかった。
私はやみくもに極彩色や派手な容姿が悪いとは思わない。外見に関係なくハートがしっかりしていれば、少々鼻が高いとか低いとか、目が大きいとか小さいとか、その程度の個性と同じで、自然と人格にとけ込んで気にならないと思う。現にそういう、何か確かなものを持っている人と出合った時こそ、こちらも刺激を受けてうきうきする。
個性的なおしゃれとは、人と違った格好をすれば表現できるものでなく、その奇抜さや、意外さが、行動や主義とうまく融合した時、一番その人らしく見えるということではないだろうか。廻りにいろいろなタイプの人がいることは、自然なことであり、とても楽しい。そうなることが、本当の意味で粋なおしゃれだと思う。
でも、そのハートがしっかりと出来上がる前に、若いぴちぴちしたせっかくの素顔を台無しにするのは、どう見ても残念でならない。そんな行為が、逆に年とってからマイナスに作用すると気付いていないのだろうか。きっとそんな先のことは考えないんだね。
刹那主義? いやいや主義も主張もないのでしょう。彼女等の言ってることは、その子固有の主張でなく、『流行』という、彼女等とはまた別な思惑で作られた規格に、はめられているだけかもしれない。カメレオンのような保護色 ――――― なんとなく、廻りの色に合わせて、それで安心?
電車で前に座った、モナリザよりはるかに美しい女子高生が、乗り込むなり7つ道具をひざの上に乗せ、それはテキパキと、口を大きくあけたりつぼめたり、目を見開いたり細めたり、わずか10分あまりの乗車時間にみごと変身して降りて行きましたが、さて彼女がモナリザの年齢になった時、モナリザより美しくあってくれるだろうか。
今、自分がおばさんになってみて、私のモナリザに対する推測は少し違っていたのではないかと思う。
生きていれば、憂い七分、微笑み三分、悲しいことの方が多いに決まってる。でも、人にそれと気付かせない配慮の出きる人、人の憂いに気遣い出きる人は美しく見える。そして決まってそういう人は、自然な微笑みを持っている。どんなに白髪になっても、どんなに深くしわが寄っても。
少しばかりの知識や教養や、まして化粧や装飾品では、つくろうことの出来ない、もっと深いおもいやりや優しさ・・・・・力強さも大事な要素。そういう本物の美しさにこそ、私達は打たれる。
近頃それをまざまざと見せてくれたのが、きんさんに先立たれたぎんさんの微笑み。 ピチピチの若さに、それでも足りなくて加工を施した化粧美でもなく、額縁に収まって世界中の賞賛をあびたモナリザのような均整のとれた美でもない、深いしわの奥から名古屋弁で語るきんさんの美は、まさに個性美の極みではないだろうか。
若い時に美しい人はたくさんいるけど、年負うごとに美しくなる人はそういない。
益々、女を磨くということは難しい・・・・・・
地上のモナ・リザ
高村光太郎
モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
世の人々のみにくさよ
モナ・リザは山青く水白き
かの夢のごときロムバルヂアの背景に
やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
ただ半身をのみあらはせかし
思慮深き古への画聖もかくは描きたりき
現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ
われはモナ・リザを恐る
地上に放たれ
ちまたに語り
汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
モナ・リザの不可思議は
仮象(かしょう)に入りて美しく輝き
咫尺(しせき)に現じて痛ましく貴し
選択の運命はすでにすでに世を棄てたり
余は今もただ頭をたれて
モナ・リザの美しき力を夢む
モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザは永(とこ)しへに地を歩むことなかれ
女性の美しさは、その人その人、もっと言えば、その時、その時の、いく通りもの美しさがあっていい。流行に染まることが美ではない。規格に合うことが美ではない。
きんさん・ぎんさんの美しさは、しっかりと地を歩んできた美しさだ。私はそういう美しさのほうが好きだ。
名古屋のモナリザよ しっかりと 地を歩んで 永しへであれ。
地上のモナ・リザ = 高村光太郎集 道程より
( 日本文学全集 集英社 )
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