新生児の声に思う
ぐったりと疲れきって眠りについたある明け方、ふと気がつくと、微かに子供の泣き声がする。時計は午前四時を過ぎたばかり。紛れもない、新生児の泣き声 ―――― どこかご近所で出産して里帰りでもしている人があるのだろうか。
こんなに疲れているのに、いや、だからこそ遠い記憶を呼び覚ますように聞こえてきた泣き声。この声に呼び起こされた日々はいつも、ぎりぎりに疲れていたから・・・このけだるさと赤子の声が妙にマッチ。懐かしささえおぼえ、しばしその声に耳を立てる。
出産の痛みも癒えぬまに昼夜を問わず三時間ごとの授乳。なんとめんどくさい、いまいましい生き物、と一度も思わないで育てられる母はいるだろうか。
鉛のように重たくなったその体を、それでもようやく引き起こすことが出来るのは、親の愛情というよりも、その子の泣き声の不思議な力によるのではないだろか。新生児の泣き声には、ダイレクトに本能に訴えかける力がある。
遠く過ぎ去った日々なのに、こんな私でもまだ、訴えに呼応したようなこの目覚め。我が子でなくとも、その未来が明るく洋々たれと祈りたくなる澄んだ響き。
ようやく泣き声は止み、ああ、きっとお乳にありつけたのだろう ―――― その無邪気な顔を想像している。
ある時は疎ましい存在であり、ある時は珍しい愛玩動物のようでもあり、鬼のように叱る時があり、共に喜ぶ時があり、共に悲しむ時があり、そうして過ぎてゆく日々が、けっして子供のためとは思いたくない自分の人生。
育ててやったなどと恩は着せない・・・・・・けれどもし、この先どこかで、ふと弱気になった時、物事をあきらめてしまいそうになった時、思い出してほしいのは、産まれた時からずっと変わらず、いやもっと前、つわりの苦しみの中からも、その子の身を母は案じ続けているということ。
ふと、こんな一句が胸をよぎる。
漬物桶に塩ふれと母は産んだか
尾崎放哉
妻を捨て家を捨て地方の寺男となって句作に打ちこんだ放哉は、どちらかといえばひょうひょうとした山頭火に比べ、やりきれない寂寥が感じられるのだが・・・・・・
薄暗く、湿った寺のくりやで、漬物に塩をふる彼がいて、本当はこんな所で漬物を漬けて終わる自分ではないと、そのさまを憂いているもう一人の自分がいて、そういう子を持った母の悲しみを思う、また別の放哉。この非常に小さな額の中に、三通りの陰影を持った自画像を描いた技は素晴らしいと思うが、学んでほしいのは技術ではなく、今の姿をもう一度自分に問うてみるということ、時には自分のふがいなさを嘆いてみる、『自覚』ということ。
放哉の母だとて、産まれたばかりの我が子を胸に、この子の未来が明るく素晴らしいものであるよう、固く祈ったに違いない。流浪の先で、漬物を漬けながらそれを思う放哉の底知れぬ孤独。母の思いの叶わなかった生涯。
放哉の嘆きに及ばなくとも、現在の自分を今一度問い正すという意味で、こういう言葉、時々心の中で唱えてみて・・・・・・
漬物桶に塩ふれと母は産んだか
たとえば龍司の場合なら、
『 電車の中に傘忘れろと母は産んだか 』
『 電車の中に時計忘れろと母は産んだか 』
あれあれ、だいぶ次元が下がってしまったが、まあ、今の自分を嘆く一句、いやニ句ということで、よーく肝に命じておいてね。
お母さんも自分に問うてみる・・・・・・
『インターネットで息子にいやみを言えと母は産んだか』
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