龍司のための古典講座 〜入門編〜
またまた龍司のぶつくさぶつくさが始まった。
「なに、あの古典の授業、さっぱりわからん。今時あんなもん読めってか、あんなもん勉強したって絶対使わん言葉や。ただでさえ眠いのに古典となるとひたすら眠い。目あけとるのがやっとで、なーんにもわからん、あーあ、もう古典なんて捨てた捨てた・・・・・・
でも、なんであんなもんやらないかんのかな、古典とか古文とかやる意味って、いったい何なの?」
ほうほう、やっぱりそうきたか、さもありなん。時代の最先端に気を奪われている龍司に、しかも現代語さえおぼつかない龍司に、千年以上も前の事学べ、と言うほうが酷かもしれない。
おお、よしよし、人には誰でも向き不向きがあるゆえ、まあプログラミング一生懸命やってその道で身ィ立てる算段すりゃぁ、古典、古文などわからんでもええわぁ、先生にばれないようにこっそりお昼寝しときぃ・・・・・・・・
な・ど・と、そんな物分かりのいい親ではないのだよ、残念ながら君の親は。
ではこれから、初歩の初歩から補習しましょう。まず一首。
子故の闇にまどひて読める
世の中に 絶えてパソコンのなかりせば 母の心はのどけからまし
世の中には、一般常識としてこの程度は知っておいても損はないよ、という事がたくさんある。そう性急に必要か必要でないか、ためになるかならないか判断して取捨選択をする前に、一見ムダな事のようでも、手に取って、眺めて、感触をたしかめてみる事も、いずれ生活の肥やしになるやもしれない。生活の肥やしというのがちょっと臭えば、スパイスとでも言い換えようか・・・・・その時々でピリッと味を引き締めたり、まろやかにしたり、薫香を添えたり。そんな役目をするのが、音楽であったり、絵画であったり、文芸であったりするわけだ。
先にあげた一首、龍司にとってはたった二十八文字、音にして三十二音の言葉でしかない、
「またお母さんの変な癖が出た、何言ってんだか・・・」
と、恐らくぜんぜん意味わかってないんじゃないの。
でも、これは古典も古典、基本中の基本だから、ちゃんと勉強した人は今頃、
「龍司の母ちゃん、またこんなところで業平をぱくりやがって・・・」
と、きっと苦笑い。それをわかってもらえば、龍司にとってはたった三十二音でしかない言葉も、お母さんの思いは千年の歴史に裏打ちされて、フロッピーディスク一枚分くらいの情報に膨らんで伝わった事になる。
(話しがだんだん壮大になってきたが、承知の上で吹くほらはこのくらい大きいほうが気持ちいい)
では解説しましょう。
世の中に 絶えてパソコンのなかりせば 母の心はのどけからまし
■語訳
この世の中に、まったくパソコンという物がなかったならば、母の心はさぞかし、おだやかでのんびりとした気持ちでいられるであろうに。
■文法
パソコンの、の のは主語を示す格助詞、
なかりは形容詞「無し」の補助活用の連用形
(なくあり の約)
せ は過去の助動詞 き の未然形で「なくば」を強める。
のどけから はクケ活用の形容詞「のどけし」の未然形。
(のどけくあら の約)
まし は反実仮想の助動詞。
(反実仮想=すでに存在する事実と反対を仮定して述べる推量表現)
■解釈
作者の子はかねてより、パソコン狂いでその事にしか興味を示さないという背景がある。それゆえ、偏った人間になりはしないか、体を壊しはしないかと、いろいろ心労も多い。いっそこの世の中にパソコンというものがなかったならば、母はどんなに心穏やかな日々が送れることか、と歌いつつ、これは逆説であって、一方でパソコンがこの子の自主性、主体性をはぐくみ、広大な知の大海にこぎい出す櫂の役目を果たしていることも否めない。パソコンがあるゆえの相反する喜びと苦悩を、古代より幾千の人々が、桜に心寄せ、桜に心まどわされた思いになぞらえて表現したものである。
尚、本歌は、古今和歌集 在原業平朝臣
渚の院にて桜を見て読める
世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
による。
文法の部分はまあ、お母さんもよくわかんねぇ。こういうの覚えるのが古典だと思うから、はなからやる気なくしちゃうね。ひたすら読んで鑑賞して、意味がわかればいいじゃんかよぉ、気持ちがわかればいいじゃんかよぉ、れ・れ・る・るる・るれ・れよ・って、れれれのおじさんじゃぁねえっての、とお母さんも言いたい。
でも現実に、今の日常語とはまるきりかけ離れた言葉で表現されているわけだから、異国語を学ぶ時と同様、文法もさけて通れないんだなぁ、残念ながらやるっきゃない。
で、言葉は普通、その質量に応じた情報量を伝えるのが常だけど、和歌とか古文とかは、長い年月を淘汰されず生き残ってきたものだけあって、非常に凝縮された意味や、史実そのものをひとつの言葉の中に包み込んでいる場合が多い。だからたった三十一字といえども、情報伝達力は百字、二百字にも勝る。
世の中に 絶えて桜のなかりせば 春のこころはのどけからまし
これが、単に一個人の並々ならぬ桜への思いを語ったというだけでなく、いつの世も多くの人々が桜の花に心奪われてきたという不変の情を読んだことに注目したい。この他にも、
見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける
素性法師
たれこめて春のゆくへも知らぬ間に待ちし桜もうつろひにけり
藤原因香朝臣
ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ
紀 友則
はなの色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
小野 小町
などさまざまな桜の歌や、桜を象徴として何かを訴えたものがあることでも、古代よりこの国の人々を語るに、桜抜きでは語れないということを証明している。
桜に寄せる思いというのは、現代人もひとしおで、『花なら桜』は過去から脈々と続いてきている遺伝情報なのかもしれない。
このように、桜はほんの一例であるが、四季の変化、人間関係、恋愛観、人生観、この風土に生きてこの国の言葉を話す以上、現代人も過去とまったく無縁ではなく、言葉というものの根底には、古い時代のものと捨て置けない何かが、生きづいて今に繋がっている。
古文を学ぶという事は単に過去の文体を学ぶという事でなく、古い時代の、人々のものの感じ方、考え方を学ぶ事なんだ。語尾活用や用語を完全マスターしたところで、けっして古典のおもしろさなんてわかりはしない。時代を超えて語り継がれているものの本質をさぐる、過去の知恵を借りて、現代をかしこく生きる。ここなんだ、大切なのは。(倒置法による強調表現)
では、なぜややこしい約束事がたくさんあるのか ―――――
たとえば和歌の場合、三十一音という限られた中に、どれだけ濃密な情報をインプットする事が出来るか、どれだけ深い世界、広い世界を描く事が出来るか、それを追求する過程で確立されていったものが、修辞(レトリック)なんだ。
プログラミングで言えば、膨大な情報を簡潔にやりとりするためのデータ圧縮技術のようなものが、和歌や古文特有の約束事や表現方法だと思えばいい。
一語でもって多くの関連情報を引き出す鍵が、枕詞であったり、序詞、掛詞、縁語であったり、リズム感、躍動感を導くのが韻であったり、表情を装う、句切れ、体言止めなど、こうしたさまざまな技巧を凝らして、競い合って芸術の域まで高めたもの、尚かつ千数百年も生き延びて来たものが古典なんだ。むずかしいプログラミング言語がわかるんだもの、それに比べたら、古典文法などたいした技であるものか・・・・・(龍司にはむずかしい事であろうか、いやむずかしいはずがない。=皮肉的表現)
古典の勉強も英語の勉強も、自分の頭の中に、翻訳ソフトを組む事だと思えばいい。
それにしても、昔の教養人はものすごく向学心が強かったのか、それともむちゃくちゃ暇だったのか、たとえば、源氏物語の読者は万葉集も古今集も拾遺集、伊勢物語等々も、過去のものは素養としてすべて身に付けているという前提のもとに書かれているから、その中からほんの一節を引用してきただけで、読み手はその文字数以上の事柄を連想して、場合によってはその連想情報が1メガ、2メガにも膨らむんだね。引き歌として取り込むことで、前の歌で語られた情景や感情がBGMのように静かに聞こえてくるようなしくみになっている。そこまで計算し尽くして書いた紫式部もすごいけど、それを解して、語り継ぎ、読み継いだ人々もすごい。ステレオ3D映像の物語を受信するには読み手もかなり感度のいい受信機を備えないとだめだけど(=それなりに勉強して頭の感度を高めないと)著者と読者の間でそういう技が、千年も前に確立されてしまっているという事は、古いものと捨て置くなかれ、古典は堂々と世界に誇れる言語文化だ。
お母さんの受信機もガタガタでかなり性能悪いけど、龍司もせめて教科書にある三十一文字(みそひともじ)くらい自力で展開する力は付けといてもらいたいね。
ひとつの言葉はさまざまな連想につながり、そうなってくると、三十一文字の威力はますます無限大ということで、古歌を引いた源氏物語や枕草子が徒然草の話題にされたり、近代、現代に書かれたものでも、直接、間接にこれらが影響しているものをあげればきりがない。万葉の時代から語り継がれた“言霊”(=言葉に宿る霊力)は知らないうちに現代に繋がってきているんだよ。
たしかドナルド・キーンが、(この人は日本人以上に日本語に詳しい)日本文学は、“綾の文学”・・・縦糸と横糸の織り成す綾だと言っていた。千数百年前から受け継がれた自然観、哲学観を縦糸として、その時代時代の新しい感覚を横糸にして綾を成すというような話しで、これが西洋文学と最も違う点だと言っていた。
現代人が急に、今のようなスタイルの日本語を話し始めたわけではなく、長い時間の中で変化して来たのだけれど、過去のものを読むと、(もちろんお母さんだって原文をそのまま理解することなど到底無理だから、解説書や現代語訳は欠かせないが)その日本語独特の綾織の美しさと緻密さがなんとなくわかるような気がする。そしてまた生活習慣や環境は全く変わってしまったけれど、根幹をなす喜怒哀楽の情は、言葉ほどには変わっていないといつも感じる。
人は昔から愚かな事を繰り返してきた、あまり発展のない生きものだと見れば、勉強の出来ない事くらい、どうってことないか、と自分に開き直ることもひとつの生きる知恵なのだが・・・・・もっともこれはせっぱつまって必至になってる人に言うことで、龍はこれ以上開き直るなぁ!
そこで、また最初に戻るが、龍司にこうしてほんの少し古典の予備知識を授けた上で、さきの一首をもう一度考えてもらおう。
六歌仙のひとり、業平の桜を縦糸に、パソコンという新素材の横糸で紡いだパロディ歌。
これは単なるパロディだが、過去の有名な一節を引いて新しく語る事を本歌取りという。本歌取りをやる以上、主題、品格ともに本歌を確実に超えないと、認知されない・・・・一見簡単そうにみえるが、実は非常にむずかしい技法で、新古今集が完成度を高めてきた特徴とも言われている。
高校生の頃に、“三集の特徴をそれぞれあげよ” などとやったおぼえはあるが、単なる詰め込んだだけで理解していなかったんだなーと思う。今ならわかる、なるほどと理解できる。古典に限らず、数学の問題でも、化学でも、“なーんだ、こういう事か、ああっ、わかった、そうなんだ!” と思う瞬間がおもしろいのであって、キャッチコピーで言うところの、“のどごしのうまさ”っていうやつかな、学ぶ事の快感もこの一瞬につきる。数学や化学は年とるとなかなか頭がまわらないけど、ある程度の年齢になってわかる物事の道理というものもあるのだよ。古典は三十歳過ぎてからがおもしろい。十五や十六では、確かに退屈かもしれない。ちょっと横道にそれたかな。
どうだろう、古今集の威をかりて一首に、FDいやCD一枚分くらいの親心を乗っけたつもりなんだが・・・・・・古典を学ぶという事が、現代人のコミュニケーションの道具としても、時には使えるというパフォーマンスなんだけどね。
夜遅くまでやってるから、古典の時間はひたすら眠いなんて言うの聞くと、逆説でなく本気で、絶えてパソコンのなかりせば、と思ってしまう。
『パソコンの技は龍こそまされと人ごとに言ふめれど、母はよろずにただ心をのみぞなやます』
とね。(徒然草=第十九段を参照して自習すること)
そういえば言い忘れた、『子故の闇にまどひて読める』のように、歌の前にちょっと説明を添えたようなものを“詞書”というが、『子故の闇』というのは、源氏物語から引かせてもらった。
紫式部は、母を早くに亡くした子(=のちに光源氏)の行く末を思うゆえ、まわりの者があれこれ案じる様を、『子故の闇』と表わしている。これは、後撰和歌集の、
人の親の 心は闇にあらねども 子を思ふ道に惑ひぬるかな
という歌をふまえているそうで、それをさらにここへ借りてきたというわけ。後撰集から、紫式部を経てお母さんまで、ちゃんと歴史はつながっている。どうだぁ、お母さんの詞書もなかなか奥が深いだろう! 試験で点稼ぐ勉強したくらいじゃぁ、ちょっとここまで言えやしないよ。
(と、母はない口髭をピンと撫で上げたい気分。パソコンの事ではいつもケチョンケチョンにされるから、こういうところで権威復活を企てたりする)
親が子を心配する気持ちは何千年たったって変わりはしない。だから、ほら、ここにこうしてあてはめても使えるだろ。『子故の闇にまどふ』と聞いたら、これからは、本歌を思い起こすと同時に、圧縮処理されている情報を瞬時に解凍して理解してもらわねば・・・・・お母さんはこんなにも僕の事を案じて煩悶しているのか。さらに一歩進んで、親とはなんとありがたいものであることよ、心配かけないようにしっかりしなければ・・・・・・とね。
これなんか、凝縮された密度の高い言葉の好事例だ。古典の解釈のポイントは、一字一句を見逃さず、(一字で意味が反転することもある)作者の意を十二分に汲み取ることだ。
人の親の 心は闇にあらねども ―――――
やがて龍司も大人になって、なかなか一筋縄ではいかない子を持った時、理解できるに違いない。時代がどんなハイテク機器に囲まれようと、親子の間の情が変わらない限り死語にはならない。最も不変の親子の情とは、自分がいつ何時、いなくなるような事があっても、子がちゃんと生きていけるかどうか案ずること。お母さんのたわごとも、すべてはこの情から発している。
言葉は感情についてゆく。感情が言葉に導かれることもある。だからこそ、言葉を学ぶ事に怠惰になってほしくない。
龍司は、何でも自分の中に取り込んでいける力がありながら、パソコン以外ではどうも努力を惜しんでいるような気がして、見ていてはがゆくてならないのだよ。それがお母さんを取り巻いている子故の闇の一因だ。
龍よ、お母さんをあんまり道に惑わすなぁ。額面通り、パソコンを賛美する歌になるよう、ぼーっとしてないで、目、キィッと見開いて頑張ってくれーっ!
龍司は常日頃、
「パソコンはつながっていなければ、ただの鉄クズ、人と人とのコミュニケーションの道具としていかに使うかがこれからの課題だ」
と言っているので、基本的には龍司も、マシンより人間が好きなんだなあ、と、その点はちょっとほっとしている。言葉を学ぶ事は、何より人間を学ぶ事だ。龍司の大嫌いな、『受験制度』とか、『画一教育』というようなもののために古典をやれなどと、お母さんはそんなけちな了見で言うもんか。
新しい時代のコミュニケーションの方法をいろいろ手さぐりしている龍司にとって、さまざまな言語データベースや翻訳ソフトを用意しておく事は、決してムダではないと思うのだが・・・・・えっ、何、空き容量がない?、ぼやきファイルがかなりの量になっているから、削除しなさい!
わくらばに問ふ人あらば山あいに説教垂れつつ侘ぶと答へよ
坂下小町
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ここに出てくる、作者名・作品名・時代順・用語・修辞法などをしっかり押さえただけでも、結構点取れると思うんだが、(あっ、やっぱりけちな了見も多少見え隠れしたかな?)・・・・・しっかり勉強して、決して捨つべきにあらず!(=冒頭龍司の古典なんて捨てた捨てた、を受けて対をなす語句)
本職の先生でも、こんなにわかりやすい例文を引いて説明してはくれないぞぉ。至れり尽くせりだね、ありがたいお説教聞きながら、ちゃーんとこうやって古典の基本までわかる仕組みになってるなんて。こういうのを物語の重層性と言って・・・・・・・・ おっと、龍司の頭がオーバーフローしそうだから、今日はこの辺で。
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