がり版刷りの記憶
”がり版刷り”という言葉の響きに懐かしさをおぼえる方は、多分私と同年代か、それより上の方 ―――――
がり版印刷 = 謄写版印刷が輪転機に変わり、そしてコピー機の普及、今では、ワープロやプリンターのおかげで、編集から印刷まであっという間の時代になりましたが、私たちが子供の頃の学校の印刷室というのは、たいがい、狭くて暗くて、油性インクのにおいがぷーんとして、刷り損じたざら紙が雑然と積んであったり、へたに触れようものなら、そこら中インクだらけになりそうな、ちょっと物騒な一角。そこで先生が、手作りでせっせと生徒への配布物をこしらえていました。
がり版刷りという言葉を知らない子供たちのためにちょっと説明すると、蝋をしみ込ませた原紙に、鉄筆(ペンの先にとがった鉄の針がついているもの)で字を書くと、そこだけ蝋がとれてインクを通すようになるのですが、ざらついた鉄板の台の上に原紙を置いて、鉄筆で書く時の音が、がりがりというのでがり版印刷。鉄筆で書くことをがり切りと言いました。
書き終えた原稿を謄写版にセットして、上からインクの付いたローラーをころがすと、下に置いた紙に文字が謄写されるしくみ。
筆圧が弱いとうまく写らないし、強く書き過ぎると、原紙が破れてしまう。書き慣れないとなかなか読みやすい印刷物に仕上がらない。
小学校の頃、昼休みとか放課後よくこの印刷を先生にたのまれて、友達と一緒にお手伝いしたりしました。
印刷した紙をずらす役、謄写版を上下する役、ローラーをころがす役、息が合うと、楽しくあっと言う間に刷り上がるのですが、急な間に合わせでそこらにうろついていた男の子などと組まされたあかつきには、紙がずれたり、インクが付いたりと、さんざんな目にあうのです。やっぱりこういうのは、気の合う女の子なかよし組でやるのが一番!
もちろんカウンターなんて付いてないから、十七、十八、十九・・・と数えながらやるのです。
放課後の職員室というのは、いつもどこかで、がりがりという音が聞こえていました。
あの音も、あのインクのにおいも、遠い記憶のかなたに ―――――
――――― となぜ急にがり版印刷の話になったかと言いますと、今日、私は近所の図書館で、目に付いた本をパラパラとめくっておりますと、宮沢賢治の一編の詩、『あすこの田はねえ』というのに、再会したからです。
あすこの田はねえ
あの種類では窒素があんまり多過ぎるから
もうきっぱりと灌水を切ってね
三番除草はしないんだ
・・・・・一しんに畔を走って来て
青田のなかに汗拭くその子・・・・・
燐酸がまだ残ってゐない?
みんな使った?
それではもしこの天候が
これから五日続いたら
あの枝垂れ葉をねえ
斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ
むしってとってしまふんだ
・・・・・せはしくうなづき汗拭くその子
冬講習に来たときは
一年はたらいたあととは云へ
まだかゞやかな苹果のわらひをもってゐた
いまはもう日と汗に焼け
幾夜の不眠にやつれてゐる・・・・・
それからいゝかい
今月末にあの稲が
君の胸より延びたらねえ
ちゃうどシャッツの上のぼたんを定規にしてねえ
葉尖を刈ってしまふんだ
・・・・・汗だけでない
泪も拭いてゐるんだな・・・・・
君が自分でかんがへた
あの田もすっかり見て来たよ
陸羽一三ニ号のはうね
あれはずゐぶん上手に行った
肥えも少しもむらがないし
いかにも強く育ってゐる
硫安だってきみが自分で播いたらう
みんないろいろ云ふだらうが
あっちは少しも心配ない
反当三石二斗なら
もうきまったと云っていゝ
しっかりやるんだよ
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
ではさやうなら
・・・・・雲からも風からも
透明な力が
そのこどもに
うつれ・・・・・
多分私は、この詩と、小学五、六年生の頃初めて出会っています。そのあと、ひょっとしたら、中学の国語の教科書にも載っていたかもしれないのですが、とにかく私の記憶の中に、『ガリ版印刷の字ずら』で急によみがえってきたのです。
五、六年の時の担任の先生(男性)が詩の朗読や暗誦をとても熱心に説かれた先生で、北原白秋、高村光太郎、宮沢賢治など、がり版で刷って配って、朝の会、帰りの会などで、みんなで声をあわせて読みました。
そしていつも私たちは、何かしら、詩の暗誦を課題として与えられ、長い詩、短い詩、いろいろある中から好きなものを選んで、誰もが、一編を常に暗誦できるようにしておかなければならなかったのです。
音楽の授業にも非常に熱心で、合唱や合奏などもさかんにやりました。
こういう時もやっぱり、教科書に載っているような歌ではなく、先生が、がり版刷りで、歌詞や楽譜を用意して、時には、先生の作詞作曲もあったり・・・・・と、とにかくこの時期、いつも詩を読んで、いつも歌を歌っていたような気がします。
こんな先生だと、国語や音楽のにがてな生徒には、さぞいやがられていたのではないか?と思いきや、結構みんなに人気がありました。
道徳の時間などは、よく、自分の好きな詩の暗誦を合格した子から、外に出てカンカンけりとかをしたのですが、わんぱく坊主ほど、ちゃっかり要領をわきまえていて、好き嫌い抜きに、たとえば、
春
陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、
おれはこれからもつことになる
というような、短い詩をさっさと答えて飛び出して行く。合奏の時などは、トライアングルを適当にチーンチーンと鳴らしていればよかったし、もちろん出来る子は進んで難しいパートに挑戦していました。
先生は何もおっしゃられなかったけど、今にして思えば、誰もが同じ詩を同じように理解するとか、みんながどの楽器もうまくなることを目標にしたのではなく、どの子も固有の能力を精一杯発揮して、必ずその生活集団の一パートを担う、ということを心がけていらしたのでは、と有難く思います。
なんといっても一番は、その先生が詩や音楽を説こうとする情熱、先生自身がそういうものを愛し、義務でなく、楽しんでいらっしゃる。これがあるから、「いいか、一生懸命やれば楽しいぞ、前向いていこう!」というような気迫に押されて、廻りをこづいている暇などなく、そういうことが嫌いな子でもずるずる引き込まれる形で参加しているというような状況だった気がします。
いくら素晴らしい詩を熱心に説いても、興味のない子には何も伝わらない。楽器がどんなにうまく扱えるようになっても、演奏家でも目指さない限り、あまり役に立つわけではない。問題なのは、その勉強の有用性とか、技巧の優劣ではなく、その先生の生き方、考え方、ひとりの大人の、こういう生き方もある・・・・こういう考え方もある・・・・というお手本だったような気がします。
幸い、私はその後も幾人かの個性的な先生に恵まれ、勉強というよりも、分野分野にかたむける情熱とか、積極性とかで、よいお手本として学ぶものが多くあったことを感謝しております。
ひと癖もふた癖もある先生が多かった。と言うと、言葉は悪いのですが、要するに何かひとつ打ち込めるもの、信念を持っている人のこと・・・・個性ある生き方を実践していらっしゃる先生、人間くさい人が好きでした。
宮沢賢治その人こそが、そういう生活の最たる実践者なのですが、私たちにその賢治を説いてくださった先生もまた、商売の先生ではなく、雲から、風からではないけど、先生から与えられた透明な力が、私の中で今も生きづいて、生活をなんとか味あるものにしたいと願う一因にもなっているように思うのです。
私は、先生の影響をうけて賢治を特別好きになったわけではないし、そういう学習をしたことすら、すっかり忘れていたのですが、こうして何十年ぶりかにこの詩に出会ってみると、ちょっと異様な心の興奮に襲われたのです。しかもそれは明朝体でも、ゴシック体でもない、あの“がり版刷りの字ずら”で迫ってきたのです。
好き嫌い抜きに、理屈ぬきに、ストレートに迫ってくる感動、長い時を隔てて、こんなにあざやかにフラッシュバックさせるもの、それはまさしく先生がこの詩にこめた愛情と、それを熱心に説いてくださった、生徒への愛情に他ならないと思います。
先生、私はだいぶ鈍感なのでしょう、今になってじわりじわりと、先生の教えも、賢治の味も効いてきたような思いがします。
私も、こんなふうに訳のわからないことごちゃごちゃ書いて、ばかやっている大人になりました。でも、先生ならきっと誉めてくださるでしょう。
「あなたらしい くらし方ですね」
と。
私は今、この詩を読んで、自分が生徒だった頃のことを反芻しています。感動というよりも、感傷。わが身のことだけ案じていればよかった頃のこと、案ずることなどいくらもなかった頃のこと・・・・・土のにおい、風のにおい、がり版刷りのインクのにおい・・・・がり版刷りの先生の字体。
知らないあいだに、私も大人になっていたけど、がり版印刷の時代に、まだまだ学び残してきたことがたくさんあるような気がして・・・・・・・・
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
ではさやうなら
・・・・・雲からも風からも
透明な力が
そのこどもに
うつれ・・・・・
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