もうひとこと言わせてよ、作文講座
〜読書感想文編〜
お母さんは、またまた名文を発掘してしまったから、もうひとこと龍司に言いたくなってしまった。と言っても、お母さんのことであるから、ご承知の通りひとことで済むはずはないと思うが・・・・
佐藤春夫を引っ張り出してくるまでもなく、龍よ、すばらしいお手本が我が家にあったよ!
弟、雅史の読書感想文だ。佐藤春夫に勝るとも劣らじ、文句なしに龍よりうまい!
ではまず全文紹介。
猫山を読んで
吉本 雅史
ぼくがさいしょによんできずいたことは、猫山ていうほんは、力をあわせれば、きっとできるておもえるほんです。猫山っていうはなしは、男の子が、魚つりをしていて、どんどん川をのぼっていって、しまいます。そしてよるに、なって、はやみちをつかって、村にかえろうと、します。でもむらにかえるどころか、もっとふかい山のなかにはいっていってしまいます。そしていえをみつけてとめてもらうのですが、そこで、よなかに、一ぴきのねこにおこされ、それでいっしょににげるけど、ばれてしまいます。それから猫ばばと、子猫たちにおいかけられて、さかなをなげては、にげて、さかなをなげると猫たちはおおさわぎ、それを猫ばばが、こういう、
「こら猫どもそいつをくったら、猫なべだぞ」
といって、一人でくっちまう。そこで、男の子が、「いくじなしども、そんなにおうぜいいながら、ねこ一ぴきもやっつけられねえのか」
と、いってみんなちからをあわせて、ねこばばをやっつけました。それから、いえにすてねこと、ニャンコをつれてかえり、家のあるねこは、じぶんのうちえかえりました。ぼくがさいしょによんでもらったのは、ながやせんせいでした。それで、よんでもらったのをおもいだして、この猫山にしました。おもしろかったところは、ねこばばが、かわにおとされてもまたムシャムシャイワナをたべていたというので、おもしろかった。思ったことは、ねこばばはどうしてねこたちをさらってきたりしていたんだろう。ねこ山はながいけどよむとおもしろい。ぼくは、一りんしゃが、のれないけどのれるようにちからをかしてもらえばのれるようになるっていうことが、これをよんでもらったときに、わかった。だからこの本をよんで、くれればじてんしゃが、まだのれない人や一りんしゃがのれない人も、がんばって、くれるとおもう。その本の中では、子ねこたちがちからをあわせたので子ねこたちはゆう気がついたとおもう。三平さんと子ねこたちが、ねこばばをやっつけられてよかった。これはできないことだけど、ぼくはさかなつりをおしえてもらえたらいいな。子ねこははらいっぱいイワナをたべてちからをつけてください。三平さんも、これから、がんばってください。
猫山=斎藤隆介・作 滝平二郎・絵 岩崎書店
どうだー、龍には書けないだろう、降参だろう!
ちなみに、お父さんにこれを見せて同じ質問をしたら、頼りないくらいあっさりと、
「おう、書けん」
と言われてしまった。だいたい一緒になってこのかた、お父さんの文章というものに一度もお目にかかったこと無いから、聞くまでもない事だったのだけど、こうあっさりと認められるとあとが続かない。
何が素晴らしいか、例のごとく解説してみよう。
まず、書き出しの文、
「ぼくがさいしょによんできずいたことは、猫山ていうほんは、力をあわせれば、きっとできるておもえるほんです」
うーん、物語の主題を的確にとらえている。しかも簡潔に文頭にまずもってきたのがわかりやすい。
そこからしばらくあらすじ説明が続く。
読書感想文において、一番勘違いが多いのは、物語の要約文を延々と書いて、最後の一行か二行にやっと自分の感想や意見が出て来るパターン。しかもそのひと言ふた言すら、作者が意図する主題とかなりずれていたりするともう最悪。要約文はよくまとまっていても、それだけではねぇ・・・と言いたくなる。まったく自分勝手に感想や意見を書きつらねても、それを読んだ事のない人にとっては、何を言いたいのかちんぷんかんぷんになってしまうが、文章の大半をこれについやすのはいかがなものか。
そもそも短い物語ならあらすじ説明もいいが、長編小説など、概略を説明する事すら困難な時もある。だからあまりこだわらないで、こういう場合は、自分が印象深かった一節をあげたり、全体を通して、作者が追い求めた主題について、自分の考えを述べればいい。
その点、雅史の文章は、この程度の説明なら耳ざわりにならないし、感じた事、思った事もしっかり書けている。
この猫山という本は雅史が学校から借りてきた本で、お母さんも内容は知らなかったのだけれど、感じは充分伝わってきた。そのあと原文を読んでみると、話の筋はだいたいつかんでいた。
さらに、自分が不得意とする一輪車の話を突如として持ち出してきたのは、読み手の意表をついていておもしろく、しかも力を貸してもらって頑張れば自分もできると思った事は、主題とけっしてかけ離れることなく辻褄も合う。こういうふうに自分にとって身近な事柄を引合いに出したのも説得力がある。
もちろん雅史はそんな事を意識して書いたのではなく、気持ちを素直に書いただけだと思うが、こういうのが“子供の視点”というものなのか、子供とはこうやって思わぬ所から、いろいろ学び取って行くものなのかと妙に感心してしまった。
そしてラスト、
「これはできないことだけど、ぼくはさかなつりをおしえてもらえたらいいな。子ねこははらいっぱい、イワナをたべてちからをつけてください。三平さんも、これから、がんばってください。」
雅史の心の中では、これがひとつの完結した作り事ではなく、何か別の世界とわかっていても、現在進行形で展開されている話のような・・・・子供らしい呼びかけの表現がそういう余韻を感じさせて、親心をぐっとくすぐるのだよ、それが変に計算された小細工でなく自然な形でにじみ出ている。うーん、やっぱり龍司には絶対に書けまい、こんな味のある感想文を。
先に言った、“未熟な文章でも素直な気持ちが伝わればいいではないか” というお母さんの願いをみごとにクリヤーしてくれている。しかも読書感想文として不可欠な要素(=未読の人にもある程度、どんな事について書かれたものなのか伝わること。それを読んで自分がどう感じたかがはっきり表明できていること)が満たされている。
読書感想文というものは、何も共感したことを書けば良いというもではなく、受入れられないと感じた部分があったなら、おおいに批判して結構、推薦文と違って、ほめちぎる必要はない。ただ、自分と肌の合わない作品をそう熱心に読み込む人もいないから、必然的に賛美調になってしまうのだが、辛口の感想だってあっていいと思う。繰り返すが、大切なのは、作者が描いた事柄を、自分はどう受け止め、どう読んだかということだよ。
ちなみに、点数をかせぐ、裏技、ハイテクニック ―――――
これぞと決めた一冊の、同一作家のものを少なくとも四、五冊は読んで、類似点や、異なる点やその印象について、比較検討のコメントをいれる。しかも、気負わないでさりげなく。論点にくるいがなければ、評価が上がることまちがいなし。但し、原先生には、このページから足がついて、ばれるだろうからもう使えない。おっと、ごめん、龍司にはちょっとハードルが高過ぎてとうてい無理な話しだった。
とは言うものの、お母さんだって、読書感想文なんて書くの、大嫌いだったんだよ。宿題にこれがあるおかげで、読書の楽しみは半減し、本好きの生徒をさらに減らしているのではなかろうかと思うほど。
十代の頃はいろいろと感じ、吸収する時で、もっと沢山読んでおけば良かったと思うのだけど、同時に、秘したい事も多い時期。そんな時に、何を読んでどう感じたか、それをいちいち先生に報告するようなものにどこまで本心が書けるものか。
本当に何かを感じ、さらにそれを誰かに伝えたいという、内なる欲求が自然と湧き起こるような本には、そう簡単に出会えるものではない。宿題だからといって、やみくもに選んだ本、あるいは、課題図書や推薦図書として与えられた本にそういつもいつも感動するほど、人の心は皆一様ではない。
良い本(興味をもって、時間を忘れるほど夢中になれる本)に出会うにはやはりそれなりのこつがあり、かなり読み慣れないとそのこつもつかめない。こんな時期に何をどう読んだか、問われるのは本当に苦痛だったなぁ。感想文を書くために立ち往生してた時間を、さらに次の読書に費やしていたなら、お母さんももうちょっとましな人間になっていたかもしれないな・・・・・ということにしておこう。
もっとも、こういう制度(?)がなくなったら、読書習慣のない人にとっては、本を手に取るという第一歩の機会をも奪うことになるかもしれないからまずいかな。おいおい人ごとではない、龍司もその一人だ。書かなくてはなりませぬ。感想文!大いに悩んで書いて下され!
本当は感想文うんぬんよりも、今の中学生が、ゆっくり本を読む時間もないほど忙しいのが問題なのかもしれない。名作の書かれた時代と作者と題名と、どんなに正しくおぼえたって、どんなに沢山おぼえたって、そんなのちっとも心の肥やしになんかなりゃしない。それよりどれかひとつでも、みんなでじっくり読み込んで、できれば、その時代背景や生き方、考え方にまで及んで意見交換したり、読む・聞く・語る・書く、総合的に落ち着いて言葉の勉強ができたらいいのに・・・悲しいかな、答案用紙のマス目が、正しく埋まれば良しとされるような現状。今目前にある受験のためには、お題目だけでもしっかりおぼえろと言わなくてはならない。
気が滅入るから、話を元へ戻そう。
なんだっけ・・・、そうそう雅史の読書感想文。
ではちょっと気分を変えて、雅史のお母さんが、ドラえもんに出て来るすねおのママだったらどう読むか ―――――
「あーらまあ、雅史さんたら4年生にもなってこんな本読むざますか、これ絵本ざんしょ、もう少しハイレベルなものを選んだらどうなの。ほらほら、ここ、小さい《つ》がぬけているざんす。それに《〜は》というときの《わ》は《わ》ではなくて《は》でしょ、もう、そんな事も出来ないなんてママ情けないざます。こんな漢字も書けないの、ここ改行、ここも改行、この点は余分ざます。ここに点がたりないざます。ここにも、ここにも。こんな事では国語の点がとれないざんす。あーあ、もうママの頭はパニックざぁます・・・・・」
お母さんは、この前の件まで、こと細まかに作文の書き方など説明した事はなかったから、当然雅史にだって、すねおのママのような事はひとことも言っていない。仮にこのような理屈っぽい事を言ったところで、今の雅史の能力ではすぐに身について改まるはずない。(龍司には、今言わなければ後がないが)何しろ雅史はおっとりタイプでまだまだ幼い。
お母さんの勝手な判断基準では、一生懸命文章を書くという作業においては、こんな事はささいな短所でしかないと思っている。それよりも、ガタガタ言って、伸びやかに書く気持ちを萎縮させてしまっては逆効果。何しろここまで書けてるのだから、龍司とはわけが違う。
雅史がこれを書いた日は日曜日、中学校の運動会でみんなでお弁当を持って学校へ行っていた。
友達とグランドの隅で遊んでいた雅史は、お昼近くになってどこかへ行くといったきり戻ってこないで、夕方になってやっと家へ帰ってきた。行先を聞いてみると、担任の先生(独身男性)のお宅におじゃまして、別に相談してたわけではなさそうだけど、同じクラスの女の子も大勢集まってきて、お菓子を食べたり、みんなでフライドポテトを作って食べたそうである。それでも、食いしんぼうのマーくんの事だから、帰っての第一声が、
「お母さんお腹すいたー」
「今、御飯にするから、ちょっと待って」
「やだー、待てーん、何かないのー」
ということで、雅史と直樹(次男)に百円づつ渡して、近所のコンビニへ肉まんを買いに行く事になった。
しばらくして、台所にいた私が自転車の急ブレーキの音と共に耳にしたのは、
「ギャー、お母さん、肉まんがぺっしゃんこで砂だらけー!」
「????? どういうこと?」
雅史の説明によると、一刻も早く食べたかったので、目と鼻の先にある店までわざわざ自転車に乗って行って、袋に入れてもらって家に着いたところ、熱かったので手がすべって肉まんを落っことしてしまった。さらに運の悪かった事に、袋から飛び出したところを自分のタイヤでふんづけてしまったそうである。
あーあーあー、本当につぶれて砂だらけになった肉まんから、わずかながら湯気が上がっているのが悲哀をさそう。情けないさまである。
しょうがないからもう一個買っておいでよ、とお金を渡そうとすると、すかさず直樹が口をはさむ。
「あっ、ずるい、自分で食べれんくしたんやで、自分が悪いんや、ニ個も買うなんてずるい!」
こう言われると、一歩も二歩も引いて決して逆らわないのが雅史の性格。
「じゃあ、俺もういいわ、御飯できるまで待つ・・・・」
このあと、夕飯の支度ができるまで、テーブルの上でそれこそ肘で紙を隠すように何やら書いていると思ったら、こんな感想文を書いていたなんて・・・・大好きな肉まんがつぶれて食べられなかったという失意のどん底で書いたとは、とても思えない。
夕御飯をたらふく食べた雅史は、お風呂から上がるとすぐに居間で寝込んでしまっていた。その顔は、昼間思いっきり遊んだ満足感なのか、先生のお宅での楽しかった夢でも見ているのか、いい顔してる。
そのすぐ横で口を開けたままのランドセルの中から、まるで「読んで下さい」と言わんばかりに、耳を突き出している原稿用紙を、お母さんは見付けてしまったのだ。(もちろん雅史は見られないように早速しまったつもりらしいのだが・・・)
これを読んだら、もう可愛さ百倍、おかあさんは思わず、その肉まんのようなほっぺにチューしてしまった。いやいやチューなんてなまやさしいもんじゃなく、もう“ブチュゥー”だったかもしれないな。
(心配しなくてもいい、もし龍司がこれ以上うまい作文を書いたとしても、そんな汚いにきびづらには、いくらお母さんだってチューなどしない。末っ子は文句なしにかわいいのだ)
そのあと、元通りランドセルに戻しておいたものの、夜中蒲団の中で思い出して、これはぜひとも龍司にも見せてやらねば・・・・・・爪の垢でも煎じて飲めと。
明日になれば学校へ持って行ってしまうし、何より雅史が素直に見せてはくれないだろうし、と思い立って起き出してコピーをとったのが夜中のニ時。我ながら自分の奇行に笑えて、いささか“猫ばば”が乗り移っていたかも。
ニ、三日後、
「マーくん、上手な感想文書いとったねぇ」
「あーっ、お母さん見たなー!」
雅史はすぐさまげんこつをかかげて飛びかかる振りをしたので、思わず身構えたが、幸いその手は下ろされ、
「お母さん・・・・ おれー、いっぱいまちがえとったらぁ?」
「そうだった? お母さん気が付かなかったけど」
(おっ、我ながらこのセリフ決まってる。なんだかドラマのワンシーンのようになってきたぞ!)
「ううん、おれー、いっぱいまちがえとったんやてぇ・・・でも、ちゃんと気が付いて、学校行ってから直して出したで・・・・」
「それじゃぁなおさらいいのになったね」
(親も子も、ちょっと出来過ぎって感じ? どこまで気が付いたか、あまりあてにならないが・・・)
ところで、お父さんであるが、
例の単純な性格であるからして、この文を読んで、雅史は一輪車が乗れない事をこんなに気にしていたのかと勘違いし(読解力ややあやうし)小学校の運動会までには、何とか特訓して乗れるようにしてやらなければ・・・と思ったらしい。
運動会までには一週間しかない。
“一本のペンが、人を動かす力をも持ちうる” という事のまさに具現か、修理の苦手なお父さんが今回は違った。
龍司達が使い古してパンクしたまま放り出してあった一輪車を翌日にはもう、なんとか直して、
「おーい、マーくん、一輪車の練習するぞー!」
夕方の特訓が始まった。本人より燃えている。雅史は、事情がよく飲み込めなくて、(なんで俺、急にこんなに練習するはめになったんだろう)というような顔でしかたなくお父さんに付き合っている。
そして、なんと驚いた事に、運動会の前日にはすいすいと一輪車に乗る雅史の姿があったのだ。超、びっくり、スーパーミラクル、みんなで力を合わせれば、なんだってできるんだ!
(やっぱり教育テレビなんかでやっている、視聴率はあまり気にしない系のドラマみたいだ)
但し、これはどうもお父さんの力添えが大きかったというよりも、すでに雅史の実力がもう一息のところまで来ていたというのが事実らしい。
あーあ、またまた子供の作文ひとつをねたに、よくもここまで、引っ張りまわして書いたもんだ、と少し自分でもあきれている。こんな稚拙な作文ひとつに一喜一憂できる我が家は、なんと単純な家庭であろう・・・・・とつくづく思う。
でもね、龍司、お母さんがなぜ最近こんな事にこだわるか。
“自分をしっかり見つめてほしい” と言ったけど、さらに付け加えれば、龍司は今、こうしてホームページで一研究や、ソフトを発表し、多くの皆さんに見てもらっている。方法が何であれ、一中学生が、自己表現の場を持てるということは、本当に幸運なこと。そりゃあ、龍司の小さい頃からの努力もあったけど、何より、見に来て下さり、励まして下さる人達のおかげ。
人は見られて美しくなる。というのは、何も美人の容姿に限ったことではないらしい。ホームページだって多くの人に見られることで、少しづつ磨かれてゆく。いや、なんとしても、磨いてゆかねば・・・
龍司は自分の実力だけで勝負していこうと意気込んでいるかもしれないけれど、今はまだ、「中学生なのにすごい」とか、「ちょっと変わった子供がいる」とか、とにかく年齢が若いことのものめずらしさで、大目に見られているだけなのかもしれないのだよ。言ってみれば、「半熟たまごの味」って感じ?
いつまでも半熟たまごでいられればいいけど、人間はそうはいかない。学生という但し書きがとれて、本当に実力だけで勝負しなければならなくなった時、それでも多くの人が訪れてくれるだろうか。この家から巣立っていって、だんだん淋しいページになり、そのうち、Not found なんてなってたりしたらどうしょう。
デザインやコンテンツに知恵を絞るのも大切だけど、そういうものを積み上げていく土台がしっかりしていないどだめ。ホームページがまだこの先当分、“書いて何かを伝える”という機能が中心である以上、少なくとも基礎的な表現力を今のうちにしっかりと身に付けておかなければ、自国語である日本語の基本くらいは。
それに、研究論文などは、明瞭かつ論理的な文章の組立てが要求される。“夏休みの一研究” ぐらいなら、みんな気楽に見てくれるだろうが、夏休みがなくなっても、本気で研究発表をする気なら、もっと説得力のある論法が必要だ。うわっつらをなめただけのような書き方でなく、自分の思考そのものを深く深く掘り下げていくような書き方もある。
お母さんがここに書いているような文章は、まったく酔っぱらいのぼやきのような、終わりそうでなかなか終わらないいいかげんなものだけど、これは、“たわごと”とことわった上のことだから、許してもらおう。
服装に、時と場所をわきまえた着こなしがあるように、言葉や文章も、時と場所をわきまえた使いこなしが出来なければ。外に向けて情報発信を始めた龍司には、雅史の作文をほめるような、甘いやり方では放っておけない。
半熟たまごが堅ゆでになるまえに、今言わなければ後がない、と思って、もう少し言わせてもらうつもりが、やっぱり少しでは終わらなかった、ごめん。
(そういえば、英語版はいつできるの?・・・・・と、耳の痛いことも、ついでに遠慮なく付記しておこうーっと)
孤軍奮闘 母親部会。エイ・エイ・オー!
こんなうるさい、おふくろさんがそばに付いてちぁ、たまったもんじゃない、龍司もさぞかし気が休まらないだろう、と心配してくださる方へ
“親の教えとなすびの花は、万にひとつのまちがいない”
と言うけれど ―――――
龍司の場合は、万の小言を並べて、やっとひとつ効くぐらい?
もっともこのようにインターネットなどというものが普及して専門情報がいつでも簡単に手に入るようになると、親の教えもあまりあてにならないことがあばかれてゆくし・・・・・・
龍司から、
「おい、まだ公開できんかよー」
と原稿の催促がうるさい。
受け取った龍司は、ひと通り目を通すと、きわめて事務的にこれをホームページに貼付て、親子というよりも、執筆者と編集者の関係。
あー、たぶん今日も空振りで、九千九百九十九個の花と散る・・・・・
せめてひとつぐらいは心のどこかにひっかかって、実を結んでくれることを願うのみ。
平成9年10月8日