パソコン昔話
「ちょっとそこ、復改してもう一行とったほうが見やすい」
なぁんて私が言うと、
「復改! いったい、お母さん何時代にパソコンやっとったよ」
などと、龍司に笑われてしまう。
最近はEnterと表記され、もちろん私のキーボードだって何台か前からすでにEnterなのですが、古くからしみついた復改になってしまう。
おーう、ばかにされて結構、私が一番最初に触れたのは、中央演算処理装置で、出力装置は高速印字機(今思えば実に低速な)で、ウルトラマンの科学特捜隊本部にあったような、でっかいドラムが回転するやつ。せん孔機でソーステープに穴あけて、原始プログラムだの、翻訳プログラムだの、目的プログラムだの、バッチ処理だの、詳しいことは忘れたが、ひっちゃかめっちゃかで、そのうちドラムの中をテープがピューとまわって処理完了。ずうたいの大きいわりにバイトとかkバイトの次元、メガ、ギガなんて知らなかったなあ。それに、冷暖房完備で気温差や湿度のない部屋でないとだめ、この部屋に入るためには、よく病院の手術室に入るときみたいに、備付けのスリッパに履き替えないとだめ。ひ弱で世話のかかる電子計算機。これ、明治でも大正でもない、昭和五十年初期です。
商業高校だったので電算機一般という科目があり、ニ年生で週ニ時間COBOLを習いました。先生が、授業中あまり程度の良くない駄洒落を連発する先生で、よく教室をしらけさせていたのですが(先生、これ読まれたらごめんなさい)その先生が、時には実に真剣に語りかけるのです。
「いいか、君たち、こんな電算機なんか習ったってどうしょうもないや、自分たちには、全然関係ないやぁって思っているだろう、(うん、そうだそうだ!) でもな、いーか、よーく聞いてくれ、君たちが社会に出た時、(先生もその頃は若かったので森田健作調)こういう物を扱える人が必要とされる時代が来るんだよ。まあ、ニ年や三年じゃこないかな、でもな、君たち、世の中確実にコンピューターの時代になるんだよ。その時になって、あー、やっときゃよかったと思ってももう遅い、そのつもりでしっかり勉強するように!」
そう言われてもね、やっぱり実感がわかない。本当にこんな大がかりな仕掛けをしてまで、電算機にやらせなければならないのか、しかも打ち出した文字はカタカナで読みずらい。そんなにのろいマシンでさえ、一通り揃えると何千万もする。ワープ専用機(当時は日本語ワードプロセッサと、ちゃんと敬意をもってフルネームで語られていたが)だってかなりの額、私たちの暮らしの中に本当に身近になるのだろうか?
コンピューターなんか大嫌いだ! 性に合わないから、プログラミングは卒業してすぐ忘れました。その後訪れる急速な技術開発と低価格化は、一地方の可憐な乙女(?)には、予想だにしなかった事でした。
高校を出て某都市銀行へ入りました。
あーあ、私の来るところではなかった。これが最初の印象です。なぜって、嫌いなコンピューターがうようよしている。知らないで入ったわけではないけれど、やっぱり性に合わない。もう胃の痛くなるようなプレッシャーです。
私が入行したのは、オンライン導入のまっ只中、勤めた支店では前々年まで毎年四〜六人の新規採用があったのに、前年からひとりづつになり、結婚退職する人がいても補充がない代り、毎月のように新しいマシンが導入され、合理化が計られていきました。
銀行というところは、はやくから非常に厳格なオペレーター管理がなされていました。仕事の性質上やむをえないことですが、オペレーターカードを挿入しないと、機械の操作は一切行えません。使用マシン、時間、記帳内容はすべて記録されることは広く知られていますが、このデータが責任の所在や不正防止のためだけでなく、オペレーターの質の向上のために、実にきめ細かく管理、統計化されていました。
たとえば、ヤマダ ハナコ と氏名を打込むとき ヤマタ ハと打って、あっ、濁点がぬけた、戻ってタをダに直しただけで、記帳エラーがしっかり記録される。一端記帳済になってしまったものを取消して直すことなんか、もってのほか、これはもう重大な失態になるわけです。一字一句の修正も見逃されず、何打、何件処理したうち、タイプエラーが何回発生するか、オンラインエラー頻度として成績一覧にあがってくるわけです。
このデータが個人のみならず、係、グループ、支店、地区ブロック等の単位で競い合わされ、所属するグループ、支店は全国レベルのどの位置にあるか、上位店に上がるには、誰がどれだけポイントを稼がなければならないか。新米行員にとって、自分のミスはグループや支店成績の足を引っ張るわけですから、いつまでも「慣れない、できない」ではいられないのです。しかもオンライン入力は時間が来ると受付ストップになるので、いくら伝票が多くても泣き言なんか言っていられない、限られた時間内に正確でスピーディーな処理が要求されるのです。
おかげで、当初先輩達の手さばきを見て、こんなのは絶対に絶対に無理だ、と思っていたブラインドタッチも自然と身に付きました。まさに習うより慣れろ。この一言に尽きます。よく、どうやったらそんなに速く打てるようになりますか、どのくらい練習しましたか、などと聞かれるのですが、私の場合練習時間はゼロです。学校ではせん孔(紙テープに穴をパンチする)に必要なタイプはしましたが、タイプ練習そのものはしませんでした。数本の指でぽつぽつといったところです。銀行へ入ってからは、練習もなにもなく実際の伝票処理一枚一枚が真剣勝負でした。早く身に付けたいと思ったら、たとえ一日十分でも、今日は何文字打てるか、明日は何文字打てるか、自分に挑戦してみることです。しかも確実正確に。でなければ、あとは気長にやるだけです。あきらめて投げ出さないように。
結婚して名古屋に行き、市内の支店に勤めましたが、昭和五十六年暮れ、切迫流産でお医者さんに、もつかどうか五分五分ですよ、と言われて仕事もやめました。この時お腹の中にいたのが龍司です。
その後、実家の家業である金物店が手不足になり、主人と一緒に帰って店をやることになりました。
私と私の母が帳簿を受け持っていたのですが、これが並の量でない。建築金物主体の建築業や木工業を対象にした商売ですので、販売の形態は売上高のほとんどが掛け売りです。しかも商品の種類も多く、納品書から売上元帳への転記、さらに請求書への転記、その都度ついてまわる計算。伝票集計方式もやってはみましたが、顧客数が五百件もあると、整理、集計するにしたって、並大抵ではありません。
あれほどコンピューターを嫌っていた私が、コンピューターの呪縛からやっと逃れることができてほっとした矢先、なんと、あろうことか、ああ、こういう仕事はコンピューターにやらせるべきだ、と考えている。私が、というよりも、この「手」がと言ったほうが、適切かもしれない。もちろん、必要にせまられなければ、二度とコンピューターなんか使うもんか、と思ったでしょうが、私のやっている仕事の形態は、まさに電算管理に移行しやすく、管理効果の高い仕事だったのです。
一度知ってしまった利便性を、この手がしっかり記憶していて、やるべきだ、やるべきだ、と言っている。
でも、まだその頃こんな田舎でパソコンで販売管理をしているようなところは一軒もなかったし、中堅企業ですら、OA化に失敗、使いこなせなかったパソコンが埃をかぶっている、というような新聞記事ばかり目立ちました。こういう記事にしっかり洗脳された両親を説得して導入にこぎつけるのは、並大抵のことではありませんでした。記帳書類が多く、母とニ人で毎晩遅くまで仕事をしていましたが、子供がニ人になったら、もう限界、その前になんとか手を打たねば・・・・・
昭和五十八年ついに私は宣言したのでありました。
「何が何でもパソコンを入れる、失敗はしない、記帳はすべて私がやる、その間、母には子守ばあさんに徹してもらう!」
さて覚悟は決めたものの、どこにどうやって頼めばよいのか、今のようなパソコンショップなどどこにもない。まして、販売管理のアプリケーションなど、見たこともない。あったとしても、きっと思い通りのものではないだろう。失敗する原因は、ソフトの使いにくさにあるだろうから、まずは、私のほしいプランをしっかりプログラマーに伝えるものを作らなければ・・・・・・
この時役に立ったのが、ほんのちょっぴりだったけど、高校時代にやった電算機の勉強でした。自己流でまずフローチャートを書き、必要とする出力帳票の種類、形態、文字列の幅、分類コードの種類から桁数に至るまで、こういう事は、家の商品の性格や販売方法にきっちり合うように設計しました。私はこういうふうに使いたいのだ、というかなり頑固な意志を持ったプランニングになったと思います。
さてパソコンですが、店で電動工具を扱っていた関係でまず、日立の電動工具の代理店に相談してみると、ちょうどそういう分野への進出を手掛けたところで、すぐ話が進みました。
「こういうソフトをのせておいくらでしょうか?」
「えっ?もうこんな仕様書までできているんですか、いゃー、これなら話は早い。実は我々、お客さんとここまで話を煮詰めるのに何回も足を運んで、あーでもない、こーでもない、長い時は半年もかかる。ソフトというものがどういうものかわかってないから、質問しても何を聞かれているのか、理解されていない。中には、おいパソコンくれ、と言われて、まずは、おじゃまして話を伺ってと行くと、値引きはいくらだ、明日まに合うか、あさってか、はよ持ってきてくれ、なんて言われて・・・・そりゃ、たしかにパソコンだけなら、在庫さえあれば何とかなりますよ・・・結局ソフトの話や、いろいろ説明していると、そんな面倒臭いことやーめた。ということになる・・・・・・」
という話で、あとはパソコンの能力と価格の問題。
ようやくその頃どうにか仕事に使えるもので百万円を切るようになってきていました。でも、私のプランニングをすべてかなえようとすると、価格の高いオフコンになる、(オフコン=オフィスコンピューターは今は死語になりましたが、当時はオフコンといえば、ショールームの一番いい位置に鎮座していました)安くあげようとすれば、そこら辺の折合を付けなければならない。
結局、価格の面でパソコンを選び(それでも今と比べたらメチャ高い)そのかわり、かなり面倒な操作で我慢することになりました。ソフトとかプリンターとか漢字辞書とか何だかんだ含めると二百万円以上にはなったと思います。
当店一号機は日立ベーシックマスター16000、かなりのひねくれものでした。 今のデスクトップスタイルにまだ余分に大きな箱がついていて、それが、処理装置、もちろん、五インチフロッピーディスクしかない。今のように、ハードディスクなどというものは全くないのです。アプリケーションもFD、データを収めるのもFD。しかも容量の都合で、プログラムは仕入管理と販売管理ニ枚に別れ、データは、仕入・顧客1・2・3・4と五枚で管理、都合七枚をとっ替え引っ替え記録。プログラム交換は処理装置へ読み込むため、いちいち立ち上げ直さねばならないが、これがまた時間がかかる。データコピーだって、記録容量が多い時は、一枚取るのに二十分くらいかかる。
それでも手作業に比べたら、どれだけ楽になったか。明治生まれの私の祖父は、よっぽど珍しかったか、じっと私の横について、
「コンチューター、っていうもんは、その洗濯板みたいなやつ(キーボード)を、こそばいとるだけで、人間の思っとる事がわかって字を書くんか?」
どう説明しても文字をいちいち変換して記録していることなど理解できない。祖父にとっては、恐らくテレビを最初に見た時以来の、その時と同じような感慨であったに違いない。
「まあ、何事もやってみるが一番、ここ座ってほら、何んでもいいから、打ってみて、あ・い・う・え・お・でも・・・・」
だいぶ指示して、やっとこさっとこ自分の名前がモニターにでると、
「なんや、俺の言うことはあんまり聞かんやっちゃなぁ・・・・」
一才を過ぎて、そろそろいたずらをするようになった龍司は、はやくもスイッチのありかをおぼえて、隙あらばさわろうとするので、そばでちょろちょろしている時は気が気でない。
「おかあさん、ちゅんちゅん、おかあさん、ちゅんちゅん」
別に私がすずめになったわけではないのですが、これ龍司から見た、私がキーボードをうつ時の擬態語。ちゅんちゅんしている時は相手になってもらえないことを自覚していたようです。
顧客管理マスターもちょっとは自慢の早業で難なく整備、順調な滑り出し。・・・・・に見えたが、一、二ケ月して、とんでもないエラー発生。
記帳中突然キーボードがきかなくなり、プリンターがわけのわかんない漢字の羅列をとめどなく打ち出して来る。そうなるといきなり電源を落とすしかない。データは壊れ、フロッピーごと使えなくなってしまう。コピーが面倒だったので、たまにしかバックアップを更新していなかったせいで、請求書発行まぎわになって大量のデータを再入力しなければならないはめに・・・・・パソコンは格闘技か?と思うくらい必至で復旧、ソフトもハードも業者の人に念入りに再チェックしてもらったけど、原因不明。
以後コピーはこまめに取り、記帳を続けましたが、これが、ひと月に一、ニ回の頻度で起こる。しかも、起こる場所、状態になんら規則性がない、一番厄介なエラー。業者の人も首をひねるばかり。
「ひょっとしたら、やっぱり、この店の中の磁力の影響では?」
これは、導入を検討したとき、私が一番気にかけていたことなのですが、店内は、隅から隅まで長年ぎっしりと金物に埋め尽くされてきたせいか、方位磁石の示す方向が標準と三、四十度ほどずれているのです。店に掛けた時計は新品でもすぐ狂い始め、合っていたためしがありません。これを住居の方へ持っていくと、またもとのように正常に動き始めます。
「こういう現象があるのですが、パソコンは大丈夫でしょうか?」
「今まで、そんな事聞いたこともありませんし、磁石をすぐそばへ近付けるなら別ですが、まず、磁力の影響はないでしょう」
ということで、あまり問題にもならず入れたわけですが、そういうことなら、メーカーの技術の威信にもかかわりますから、しっかり調べてみましょう。ということになり、日立から技術系の人達が来て、いろいろな機械を持込み調査が行なわれました。
たしかに、店内と店外では、磁力的になんらかの影響で変化があるけど、これが直接パソコンに害があるとは言い難い。五百メートルほど先に電車の線路があるが、それの影響もはっきりしない。電源とパソコンの間に、心電図を計るような機械を置き、使用中も使用していない時もずっと紙テープに電流や電圧の変動を記録し、エラー発生時の瞬間を取ろうと一週間ほどセットしましたが、
「電源に関しては、これだけの期間取ってみても特に気になる変動も起きていませんので、電源の問題ではないでしょう」
と、装置いっさい引揚げた直後、待ってたようにエラー発生。この時立ち会っていれば、何か手掛かりがつかめたかもしれないと残念がることしきり。
結局、磁的影響だとしたら、パソコンの置く位置や方向を変えてみたら、なんとかなるんではないかと言うことになり、エラーの起こるたび、ニ度三度ほど、狭い事務所の中で方向転換をしました。出入りする問屋さんが皆、来るたび、
「あれ、パソコンの位置変わりましたね」
と言うものだから、説明がめんどうで、
「何だか、方角が悪いから、変えた方がいいって言われて・・・・・」
「へえー、やっぱり、こんな最新式のもんでも、置いておく吉方とかがあるんですか?」
「ええ、そうらしいですよ」
まじめくさって答えておきました。
その後半年以上たっても現状に変化がなく、エラー発生の都度バックアップを入れ、こまめに更新を心掛けるしか打つ手はなく、結局システムプログラムは再度全部組直すことになり、ハードはすべて新品と交換してもらったら、それから異常は起きなくなりました。
なんだ、こんなことなら始めっからそうしてくれりゃあよかったのに。はるばる茨城から高給取りの技術者やたいそうな機械持ち込むより、よっぽど安かろうに。
これも、パソコンが普及していく過渡期の試行錯誤の一端であったのだろうか、新製品が出るごとに外界の影響を極力ブロックする素材開発や工夫も進んで、だんだん信頼性も上がっていったようです。
その後何台か買い替えて更新し、その都度技術のめざましい発展の恩恵を実感してきましたが、ギーコギーコゴクゴクゴク、と大きな音をたててデータを記録していたパソコンを懐かしく思います。
ワープロ文書にしたって、レイアウトすら思うように指定できなくて、打ち込んで印刷してみて、何こま移動したら見やすくなるか、かぞえて再度見直して印刷するというようなありさま。字体やフォント設定なんか、夢にも思わなかった。出来の悪い子ほどかわいいと申しますが、その程度のパソコンが実は私の能力の首尾範囲で、持ってる能力の百パーセントを、あるいは百二十パーセントくらい発揮してやって使いこなして、大往生させてやった感があります。
今のパソコンなど、何だかわけのわからない機能ばっかり増えて、息子に言わせると、私なんかパソコン使っているうちに入らないそうで、私もそれは素直に認めざるを得ません。ちょっと何かやってみようといじくっていると、変な警告を受けたりして訳わかんなくなって、
「おーい、龍司ちょっと何これ?」
「おい、また何をやらかしたよ、あっ、これね、〇〇が××やもんで、△△なのよ」
「何、それ、もっとわかりやすく説明してよ」
「いわゆるひとつの、○○とういう機能なんやけど、まあ、お母さんに説明してもわからんやろうで、気にすんな、気にすんな」
と軽くあしらわれてしまう。
(この道二十年、日本語入力ならまだまだ龍司に負けないぞ!このへたくそなタイピングめ。指の動きに無駄が多い、はっは、笑っちゃうね、小さなミスがとんでもない変換につながる。まどろっこしくって、見ちゃいらんないね)なーんて思いつつ、財務管理と販売管理とワープロぐらい、ベテランの振りして使っていますが、その域を出ません。
今でもパソコンは好きになれません。やっぱり性に合いません。長年の記帳のせいで、右上半身が軽くしびれた状態で、天候不順だととくに腕が痛みます。ペンがしっかり握れなくて、かなり前から握力が落ちているのは気が付いていましたが、昨年病院で検査したら、十キロくらいしかありませんでした。特に指先の力がなく、棚の上から皿など取ろうとした時、よっぽど注意しないと、自分では握ったつもりでも、ささえきれなくて、あっと思った瞬間もうガチャーン。最近本で読んだのですが、「パソコン手首トンネル症候群」という症状にしっかりあてはまる。(株式会社法研 宮尾 克 著)
電子機器の健康への影響が心配されていますが、私自身流産や切迫早産や甲状腺機能亢進など経験して、とくに母性・・・・・体中が敏感になっている妊娠中などは悪影響が大きいと思います。ワカッチャイルケドヤメラレナイ、零細企業は代打がいないからです。
出産のその朝まで、少しでも伝票を残さないようにと記帳し、退院した直後から、またいつもの暮らし。産休もろくになかったけど、働けど働けど我暮らし楽にならざり、の現状を何とか改善できたことは確かでした。当初からニ人かかってもあまるほどの仕事量はひとりで出来たし、その後の経営拡大につれて増した事務量も、技術の進歩がカバーしてくれて、今ではこれがなくなったら、三、四人かかったって対応しきれるかどうかわかりません。パソコンは好きではないけど、これがあったおかげで、お金には替えがたい時間的な余裕を与えてくれたことは確かです。(体の痛みと引替えになったのも事実ですが)
息子のおもちゃにパソコンを与えたのには、そのうち慣れて、いざという時私の代打くらい勤まればという思いもあったのですが、あっと言う間に追い越されて、独自で自分なりの利用方法を見つけてしまった。格上げして、当店のOA部長(無給ではあるが)に任命したら、調子にのって、店のホームページまで作ってしまって、更新情報をくれといつもうるさいが、もともと金物店なんて地味な商売、そんなに変化もない毎日。でも、当節この程度の電脳社員が一人いると便利は便利。
早くからパソコンを仕事に利用していたとは言え、息子がこんな子でなかったら、それ以上の使い方をしようとは思わなかっただろうに、今ではOA化に積極的な部長の導きで、モデムまでセットされて、Eメールまで活用できる状態にあるのだが、なんせ田舎の金物店ゆえその機会も少なく、せいぜい部長と業務連絡のみ。
そのうち家庭内LANなんて言い出しかねない息子を尻目に、
「いいじゃないか、復改で」
と手の動く限りこの道をゆくしかない。
大きらいなパソコンと共に・・・・・・・・
追伸
ベーシックマスターのワープロ取扱説書があったので、懐かしく思い、取り出して見ていたら、入力説明の例文の中にこんな一節がありました。
(昔読んだ記憶もなく、誰の説なのかも記載がありませんが、文書例が、ゴルフコンペや同窓会の案内作成なんかでないところが、メーカーの意図した対象ユーザーと時代を感じさせます)
情報処理から情報創造へ
パーソナルコンピューターとオフィスコンピューターとの違い、あるいは、コンピューターを過少評価してネガティブに捉えている人とコンピューターを創造の道具や考える道具として捉えている人との違いが生まれる背景は、コンピューターの作業を「処理」とみるか「創造」とみるかにある。つまり、道具との触れ合いの度合いから生じてくるのです。
「処理」という言葉には、受動的とか誰かに委託したといったイメージがつきまとっています。事務処理、後処理という言葉もけっして愉快な気分になるようなイメージをもっていません。Processingという言葉をこのように翻訳してしまった影響は今後のコンピューティングにとって大きな問題を残したといえます。
コンピューターを単に物事の処理に使う道具としてだけ捉えるのでは、その隠された創造性と可能性に出会うことはできません。
十数年たって、黄ばんで古くさい内容のなかに、この一節だけなぜか、きらりと光って目を引きました。技術進歩で創造と可能性を大にした今だからこそ、意味ある言葉に思えてくるのですが・・・・・
私が二十年間、末端の一ユーザーとしてコンピューターとかかわってきたなかで感じた思いを、簡潔に集約した一文になっております。
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