山頭火と坂下町


 種田山頭火 ――――― 山口県生まれ。早稲田大学を中退後家業の酒屋を継ぐが失敗して破産、妻とも離別し曹洞宗禅僧となり出家行脚して俳句を作る。


 自由律俳句で、尾崎放哉とともによく知られる山頭火は、生涯旅に明け暮れた人ですが、この坂下町にも二度訪れ、句を書き残しております。
 一度目に訪れたのは昭和九年四月十四日。二度目は昭和十四年五月七日のことでした。二度とも、坂下駅から徒歩で五分ほどのところにあった旅館「薮下屋」に泊まっています。旅館といっても、行商人や、下呂・白川方面から出てきて長野県諏訪へ糸引きに向かう女工達が泊まった木賃宿だったと聞いております。
 実はこの「薮下屋」、長らく空き家となっていたものを昭和四十三年に買取って商売を始めたのが私の父で、現在は金物店「五味商店」となっており、「薮下屋」の面影はまったくありません。が、昭和四十七年頃までは、道路に面したニ部屋を改装して店とし、あとはそのまま使用していたので、山頭火が休んだその部屋で私も同じ天井を見つめて寝ていたのかも知れません。
 旅館と言っても、下にニ部屋と、お勝手、お風呂、ニ階にニ部屋。屋根の付いた渡り廊下でつながれた離れにトイレと、家人が使用していたらしいニ部屋。裏にはいつ崩れるかもしれないような石垣がせまり、その上に小さな竹薮がありました。
 その竹が建物にすっぽり覆いかぶさっていて、室内は昼間でも薄暗く、「薮下屋」とはまさにぴったしのネーミング。ニ階に上がる階段がいくぶん幅広く作られていたのが、宿屋のなごりかと思わせる程度のごく普通のこじんまりした作りでした。


 さて、山頭火ですが、自由律俳句というもの自体、最初はなかなか理解者も少なく、まして放浪の俳人ともなると、異端者扱いされていたような面もあり、生前とくに脚光を浴びることも無く、四国松山の「一草庵」で、わずかな友人に見取られて質素な生涯を終えました。1940年、五十八才のことでした。
 その山頭火という名を私達がよく耳にするようになったのは、昭和五十年代。没後かなりたってからのことです。永六輔さんがラジオ番組で、山頭火とその句を取りあげたのがきっかけで、全国的にブームとなり、各地に句碑が建てられたりして、そのブームを追って、NHKの人が我が家に取材に来たこともありました。
 もうその頃は、「薮下屋」は取り壊して建て直していましたし、父も山頭火どころか、当時の宿屋の主人とすら面識が無く、山頭火が泊まった一夜がいかなる様子だったかなど、問われても答えを持ちませんでした。逆に、山頭火はこの薮下屋の主人と酒を飲んで意気投合し、えらく気に入った様子をあとで友人に語ったと聞きました。
 この頃私は高校生ぐらいで、とりたてて印象に残る句もなく、第一、酒呑みで家族を捨ててほっつき歩いて、反省を重ねても更生できないというのが気にくわない。句はともかくとしても、そういう素地が理解できなかったのだと思います。
 しかしまあ、「薮下屋に泊まった」のがキーワードとなり、その後目にふれる機会あれば手に取り、手に取れば読むということで、自由律の発祥のあたりから、友人談に至るあたりまで検索を広めるうち、どっしりと重いものに行き着きました。
 それは、山頭火の日記です。春陽堂書店発行 『山頭火全集』全十一巻の中、句や書簡とともに大半にわたって、その日記は収められております。
 世に日記文学といわれるものは数多くありますが、これほど読まれることを意識せず、さらりと書いて、しかもその内容の多くは、飲んだ、酔うた、食うた、寝た、とうふを買った、菜を炊いたと日常の雑事が繰り返されているにもかかわらず、何かどっしりと重いものが一本貫かれている ―――― 句作への心構え、迷い、決意、その時々のゆれる心境をなにげなく書き留めたものであるが、これが実に味わい深い、ひとりの旅人の心の足跡として「読める」のです。
 文体は「酔人の息づかい」とでも言おうか、句点が多くきわめて短い、けれども端的な表現で、理屈っぽくなく素直です。

   焼き捨てて日記の灰のこれだけか

 という句があるところを見ると、まだこの他にも膨大な冊数の日記(彼の場合、大学ノートを使用)を、自らの手で処分して、寂しそうに灰をかいている山頭火の姿が目に浮かびます。収録されているというものの、不明な期間もあるので、全部残っていたなら、かなりの圧巻になったことでしょう。
 幸い、坂下を訪れた時のものが、全集の第六巻と、第九巻に収められていて、前後の状況から山頭火がどのような心境の時、この地を訪れ、坂下をどう見たかがうかがえます。


 昭和九年四月十四日 坂下から清内路へ
            曇、やがて晴そぞろ寒い、春がおそい今年で、
            さらに春がおそいこのあたりで。

      四月十五日 清内路から飯田町へ



 当日の日記の記述はこれだけですが、実はこの一回目に来町して薮下屋に泊まったのは、山頭火が前もって予定していた行動ではなく、全くの偶然によるものだったことが、彼の友人であり、彼の句の熱烈な支持者であった、大山澄太氏の書物に記されております。(『山頭火の宿 そして酒と水と』1976年 弥生書房)
 それによると、広島にある大山氏の家で泊まった時、名古屋から木曽路をへて飯田の大田蛙堂さんという知人を訪ねる旅の計画をしたが、島崎藤村のふるさと、馬籠で一泊して『夜明け前』の舞台を訪ねるようにすすめ、バスもない時なので、中津川より、落合川で中央線を下車して、登ってゆくがよいとすすめておきながら、彼に渡したメモには「坂下」と書き違えていた。とあります。
 これによって、山頭火は落合で降りて馬籠を訪ねるつもりが、坂下で下車してしまって、これは私の想像ですが、馬籠に至る道を人に問うたところ、間違いに気付いたかもしれないが、恐らく引き返して落合から登るにはもう時間もおしていたので、その夜は坂下に泊まることにして、翌日清内路への道を教えられて登って行ったことでしょう。
 自由気ままな旅人山頭火は、何もひと駅間違ったくらいでがたがた言うような人ではなかったし、予定通り馬籠を見なければ、というような気持ちもなかったようで、ふらりと立ち降りた土地で道を聞き、宿を訪ね、そういう偶然の人との出会い、まさに「一期一会」を味わう人でした。
 ふところに余裕があれば、木賃宿に泊り、土地の酒を所望し、その酒や水の味などから、居合せた人との会話を楽しみ、法衣姿の質素な旅ではあったが、気の合う話し相手が見つかれば酒量も増し、それを唯一の贅沢とした彼でした。一人で部屋に寝られることは珍しく、行商人達と合部屋になることもあったようですが、気にさわって、機嫌の悪くなることも日記にたびたび記されています。
 その頃の庶民が利用した一般的な旅館制度は、米はお客が夕、朝、昼、三食分として五合または六合を出し、おかず代と泊り賃は宿屋の負担、その米やおかずを炊く燃料の薪代として現金で先に払う金を木賃と言ったそうで、朝食に食べた残りのご飯を自分で弁当に詰めて出立する、米の持ち合わせがなかったり、不足の時はその分も現金ではらう決まりで、戦争で米が配給制になった頃からこの制度もいつしか消えていったとあります。(『山頭火の宿』)
 薮下屋がこういう泊り方だったかは、さだかではありませんが、彼の場合、托鉢でいただいた米は、大いに利用していたようです。
 稿料と胸張って言えるほどの収入はなく、全国各地で彼の句を慕う人々の支援と、托鉢による恵みにたよっていた彼は、野宿も頻繁でしたが、それはそれで、苦ともせず大自然の中に抱かれて、水の音、虫の声を聞き、みごとに句に織り込んでいきました。


 薮下屋に泊まった翌日、清内路に向かった山頭火は、春というのにひどい吹雪に見舞われ、峠越えに難儀し、一夜を雪の山中で過ごして体が冷え込み、それが原因で急性肺炎となり、長野県飯田の川島病院に入院して知人の世話になったそうです。
 坂下でもまれに、桜の花に雪の降りかかるようなこともありますが、四月に積もるようなことはありません。もっとも、私の子供の頃は、今より冬はもっと雪が降ったように記憶しています。やはり地球温暖化で昔より暖かくなっているのでしょうか。
「春がおそい今年で、さらに春がおそいこのあたりで」
 こんなフレーズを残しているところを見ると、薮下屋の一夜もかなり冷え込んだものと思われます。清内路はここからそんなに遠くありませんが、長野県に一歩踏み込めば、気候もだいぶ違います。このとき、峠には雪が一メートルもあったそうです。
「落合」とすべきところを「坂下」と書いたばかりに、大病をさせてしまったことを詫びた友人の著に、
「私の誤記など心に残してないような態度と口ぶりで、何故私が詫びるか、そのわけがわからぬというようにきょとんとして、木曽路の水はうまかったよ、と語った」
 とあります。こういうところが、まさに彼の彼らしいところだと思うのです。
  
  山あれば山を観る
  雨の日は雨を聴く
  春夏秋冬
  あしたもよろし
  ゆふべもよろし


 最も有名な作ですが、まさにこの句の通りあるがままを受け入れ、自然を、その大もとたる「水」を味わう彼の姿があります。


 しばらく飯田の知人宅で養生した彼は、帰庵して、その後も何度か各地に出かけておりますが、この病がその後の彼の心身に深く影響したことは確かでした。
 肺炎といえば、当時は生死をさまよう大病で、それまで幾度となく自暴自棄となり、常に死を意識していた彼も、この時ばかりは、真実死の淵を覗き込んだようで、この病気を期に、無理のできない年齢になったことを思い知らされると同時に、彼の中の何かが変わった、という印象がうかがえます。
 この坂下から清内路を越えて飯田に至る道中、また、飯田で養生していた頃の句に、以下のようなものがあります。

    飲みたい水が音たててゐた

    樹が倒れてゐる腰をかける

    病みて一人の朝がゆふべとなりゆく青葉
  

『山頭火全集』


       旅に病んでの飯田にて

    病んで寝てゐてまこと信濃は山ばかり
 
『山頭火の宿』




 二度目の坂下は、昭和十四年五月七日、中央線を長野方面から上って、名古屋の友人(林吾君こと森有一さん)を訪ねる途中に下車して一泊しています。
 六日の泊りはどこであったか記録がありませんが、朝八時に汽車で出発して、十一時には上松に着き、寝覚の床を見物しております。臨川橋、木戸沢橋、浅沢橋、大沢橋、びわ沢橋と歩いて、須原駅に着いたら四時近かった、そこでまた須原駅付近をぶらぶらとして、五時の列車に乗り込む、とあります。
 この五月七日と翌八日にわたっては、一日の日記の記述の量にしては、かなり詳しく書かれており、句もたくさん作られております。
 何も坂下で降りなければならない理由もなかったわけですが、前に来た時、宿の主人と楽しく語り合ったこと、その翌日には瀕死の状態で清内路の峠越えをしたことなど、もろもろの記憶が彼を下車させ、彼の筆を動かせていたのかもしれません。
 以下そのまま抜粋しておきます。


『山頭火全集』第九巻 


 以下ずっと車内の様子と名古屋に着いて友人との再会のことが書かれてあります。
 車中で作ったと思われる句、夜の句会での作も多数。
「日の出湯」というのは、現在の坂下町大沼町の岐阜信用金庫から郵便局へぬける小径の辺りにあったらしいですが戦後にはもうなくなっていたようです。他にももう一軒銭湯があったそうです。どこの家にも内風呂がある土地柄なのになぜかなあと思い、祖父に聞いたところ、それは明治から昭和初期にかけて繭取り引きがさかんであったため、繭の仲買人や行商人が多数出入りして、駅周辺には、木賃宿や宿泊所のようなものもあり、おもにそういう人たちが利用していたそうです。
 養蚕は木曽谷、東濃地方の農家の副業として営まれ、町内で糸も生産されておりましたが、せりにかけられたあと、汽車で長野県諏訪、岡谷の製糸工場へも運ばれました。『ああ、野麦峠』(山本 茂実 著)で女工哀史として描かれた繭も女工も、その一部は、この坂下を通過していったものだったのかもしれません。
 薮下屋のすぐ隣には、かつて盛んだった蚕糸業の名残として組合経営の繭の選別所と製糸工場が昭和六十年頃までありましたが(濃信社)、時代の流れに逆らえず、長年赤字続きで廃業してしまいました。朝八時から、昼休みをはさんで夕方五時まで続く糸くり機の騒音、繭を煮るあの独特の匂い、美しい繭からは想像もつかないほどグロテスクな蛾がたくさん発生して壁に張りついていたりと、あまり良い印象は残っていませんが、ひとつ残念だったのは、敷地内にあった、みごとな花を咲かせる桜の大木も一緒に処分されてしまったことです。
 私の住んでいた時も、裏薮の雀共は会議中でした。とくに山頭火の訪れた四月、五月は最盛期、ちょうど新学期が始まって、疲れと眠気でもう少し寝ていたいと思うのに、雀共は本当に夜明けとともに猛烈に騒ぎ出すので、春の雀の騒がしさは、はっきり記憶に残っております。これはもう会議を超えて争議でした。が、後にここの石垣が危険となり伐採改良工事がされたため、雀共も多く立ち退きをさせられました。
 「鯖の酢漬」が坂下の名物ではないけれど、冷凍・冷蔵技術の無い頃に坂下で手に入る魚と言えば、塩鯖、塩さんま、塩いか等の塩蔵品、鰺や鰯の干物。これは余談ですが、東京で暮らしている叔父が、何でもそろう東京で絶対に手に入らないのが「塩いか」だそうで、塩の結晶がしっかり身の中に詰まったやつを、何時間もかけて塩出しして食べる、あの味が妙に恋しいと申しておりましたが、坂下から県外に出ている人の思うことは、皆同じらしく、最近坂下の郵便局がユウパックのふるさと便なんかで取り扱っているとか。新鮮な物が手に入る土地では、何もあんな塩のかたまりのようなものを好まなかったようです。
 鯖の酢漬も坂下では数少ない海の食材として、昔からよく食べられていたのでしょうか・・・・・それにしても、木賃宿で朝から付けたのは、やはり宿屋の主人の特別なはからいだったのではないでしょうか。酢鯖にしろ、塩いかにしろ、海から遠いこの地ではごちそうだったはずです。
 「ここは先年一泊した土地、いろいろなことが思い出される」
 と彼も書いた通り、薮下屋の一夜はきっと感慨深いものだったと思われます。

 ゆっくりと時が流れ、人の心もゆったりしていた頃の坂下、なんのへんてつもなさそうな田舎町ですが、この五十年ほどの間に、汽車は電車に代わり、砂ぼこりをたてていた道路は舗装され、主な産業だった養蚕や和紙(坂下紙)の製造はすっかり姿を消し、ずいぶん変革をとげています。この先五十年、いや五十年と言わず、十年、二十年は、今までよりもっと速い速度で変化してゆくことでしょう。
 いつまでも空気や水のおいしい土地であり続けることができるでしょうか。見知らぬ旅人に親切にできる土地柄でありえるでしょうか・・・・・

 今でもごくまれに、
「ここは山頭火の泊まった旅館があったらしいですね」
などと訪ねる人もあるようです。地元の人は山頭火がこの地を訪れたことを知る人も少ないようですが、全国的にはかなりのファンがいるとか・・・・・
 新語、カタカナ語のあふれる現代、情報量が多くなった分、本来の日本語の趣が粗末に、ぞんざいに扱われる中で、一字一句をねりにねって表現した作品というものは、定型、非定型、詩、小説などのジャンルを問わず、何かしらほっとするものを与えてくれるものです。
 生活者としては最低のところまで落ちていった山頭火が、もう自分には、句作以外何もないと開き直ったところから、彼言うところの「句作道」に磨きがかかって、ありふれた言葉が彼らしさを帯びた一群となるマジック。想像する黒い粗末な法衣姿に反して、句の色は鮮やかで躍動的な印象。以下、彼の歩んだ句作道なるもののエッセンスを拾い上げてみました。
 

『山頭火全集』全十一巻

 時経ることおよそ半世紀余、環境は大きく変わりましたが、その変化に比べたら、人の心のあり方というものは、さほど変わっていないのではないかという感があります。迷い、悩み、方向をさぐりながらも努力し続ける力強さ、一つの道に邁進する困難と喜びは、句作道ならずとも、いずれの道でも、大昔から現代に至るまで大きな課題であります。
 このホームページの主人である我が息子は、(生活者としては非常にだらしないのですが)只今、パソコンに夢中で、それも昨日、今日に始まったことでなく、かれこれ五、六年、せがまれて買ったC言語の、難解なマニュアルを前にした時は、身のほど知らずもいいとこだとあきれていたのですが、なんとかソフトを作って、次々と新しい言語の要求に、もうここまで来れば全面的にバックアップするしかないかと見守っておりますが、行き止まりの迷路にはまり込んだように、苦しんでいた時期もありました。
 そんな迷路から、外界に一筋の道を開いてくれたのがインターネットです。以前は、わからないで何日も、何週間も悶々としていたことが、技術的な問題については、会議室やフォーラムなどでいろいろと参考にさせて頂き、助かっております。
 またこの半年間、多くの方々からご意見、御感想を頂き、大変励まされてまいりました。人と人との交流が希薄になってきたと言われる現代、しかもパソコン好きなどと言うと、それだけで人付き合いが悪いような印象にとられかねない世の中で、この回線の向こうに、本当は、とても心の暖かい親切な人々がたくさんいらっしゃることを知りました。小生意気な、たかが中学生にご親切にメールを頂き、しかもその文面から感じられることは、皆さんそれぞれの道で、努力・研究を積んで向上心旺盛な方が多いということです。言葉で表現されているわけではないのですが、そういう気迫が伝わってきてしまうというのも、インターネットのすごさかなと思います。
 山頭火がたまたまこの坂下町に降り立って、薮下屋に泊まったのも何かの縁と、彼の言葉を借りて息子に言うなら、
 

 
 パソコンに遊ばれるので無く、自己表現の手段としてのソフト開発なら、多少の夜深しも目をつむるしかないか・・・・・・
 回線の向こうの、頑張っている人達の気迫をダウンロードして龍司も頑張れ・・・・
 今後とも皆様のご支援をよろしくお願いします。


平成8年12月27日



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