“吉本龍司ホームページ開設への伏線”
(これは平成五年、龍司が小学五年生に進級した年の春、担任の先生が家庭訪問にいらした時、龍司の生活についてお話をした中で、今の話しちょっと簡単でいいから文章に書いて、と言われたのを、簡単で済みそうにないからさんざん悩んだ末、龍司に背中を押される形で書いたものです。
ここにかいま見る、すなおさ、あどけなさはもう私の手元にないような、一抹の淋しさを感じますが、代って、ホームページのようなクリエイティブな作業をするための力は、こつこつ積み上げてくれたような気もします。ここまでに至る足跡として、また今取り組んでいるプログラミングやメール交信がもうひとまわり大きな成長へのステップとなることを祈ってここに掲載いたします)
夕食の後片付けをしている私に、龍司がいつものスローなテンポで話しかけてくる。
「昨日まではさー、英語三十二枚やっとったんやけどさー、今日は十六枚にする。他の勉強もやらなあかんしさー、打ち込みたいプログラムもあるもー」
「龍の好きなようにしなよ、自分で計画立ててやればそれでいいよ。
お母さんも、今度の家庭訪問で先生に宿題もらったんだけど、困ったなあ、どうしよう」
「あのーなんで勉強するかってやつ、何か書いてくれってこと?」
「なんで知っとるの?」
「なんかよー、そんなようなこと話しとるの聞いとったもんでよー・・・・・お母さん書きたくないの?」
「そりゃー書きたくないさ、お母さんも自分の好きな勉強ならいいけど、宿題はあんまり好きじゃないも」
「じゃあ、あのー・・・・・やらんでもいい方法が一つだけあるよ」
「何?」
「ええとよー、僕が勉強やめちゃうことよ」
「そんなら、龍が頑張っとるでお母さんも書かないかんかなー」
「うん、それがいいと思うよ」
かくして、一日延ばしにしていたこの宿題にとりかかったのですが・・・・・・このように我家では、励まし、励まされ、共に成長していけたらいいなあと、日頃から願っています。
龍司は小さい時から、何かに凝ると、とことんのめり込む方でしたが、逆に何も当てがないと、本当に暇を持て余してしまって、生活全般がどうしようもなくだらけてしまう、そんなところがありました。宿題はやろうともしない、朝寝坊はする、かといって思いっきり遊ぶでもなく、「ひまやよー」と言うのが口癖でした。
「漢字なんかわからんでもいいのに、何でこんなに面倒臭いことしなあかんのかなー」
算数の時は、
「計算機でやればいいのに、どうせ大人になったらこんなの計算機でやってしまうんやに」
とぼやいている時間の方が長くて、なかなか先へ進みません。
ところが三年生になって、一学期、電気のことに興味を持つと、盛んにそのことに関する本を読むようになりました。すると、専門書には、難しい漢字は出てくる、当然かななどふってないし、電気量と抵抗の関係などは数学的な考え方や計算が基礎になければちんぷんかんぷんだし、そういうことに自分で直面してみると、やっぱり学校の勉強というものは、乗り越えて学習して行かなければだめだということを、自分で感じ取ったようです。
自分から何か求め知りたいと欲求のある時は、生活にも張りが出てきます。自分の読みたい本があれば、さっさと宿題も片付け、言われなくても風呂に入り、自分の時間を作るように心掛けるし、生き生きとしてきます。
でも、そんな時ばかりではありません。ひと通り電気やラジオのことについて調べてみたものの、小学生のやることですから限界があります。行き詰まるとまた元のようにだらだらとした毎日になってしまいました。
こういう時は、勉強や生活について口うるさく言うよりも、何か夢中になれるものを見つけさせてあげる・・・・・このことが龍司にとっては一番よい解決法だとわかっているのに、それが見つからない。龍司自身、自分でそのことに気が付いている。何かやりたい、けれども何をやっていいかわからないもどかしさ。動作は益々鈍くなり、ついつい私の小言も多くなってしまう。
「なんでもっとテキパキできないの、やらなければならないことはさっさと片付けて、もっとしゃんとして、しゃんと」
いくら言っても無駄なのは百も承知、『何か』ないものか ―――――
「ねえ、スポーツ少年団に入るとか、そろばん習うとか、習字はどう?」
龍司の性格ではそんなことに気が向くはずがないと、親が一番よく知っているのに一応聞いてみる。答えはノー。――――― 『何か』ないものか。
そんな時、仕事に使っていたパソコンに買い替えの時期がきて一台あきができたのを、欲しがるので与えたところみるみるのめり込んで、最初はアルファベットも満足に読めなかったのが、三ケ月程でひと通りの扱いができるようになりました。
販売管理専用に使っていて、他のアプリケーションソフトがひとつもなく、自分でソフトを組む以外に利用価値がないので、龍司はマニュアルと首っ引きで、無心になってやっていました。そうなるとまた生活にも張りが出てきます。勉強への取組みも、乗り越えなければならないものと自覚してやっているようでした。
ベーシック言語のプログラミングが、だいたい扱えるようになってくると、それより難しいC言語をやりたいと言い出したのですが ―――――
C言語のプログラミングに取組み始めたのはいいが、わからないことの続出、分厚いマニュアルを何冊も前にして悪戦苦闘、はたで見ていて気の毒なほどまいっている。
「龍、本当にでききるの?」
「わからん、でも、ベーシックだってはじめは全然わからんかったけど、だんだんわかってきたのやで、慣れればわかるようになるらー」
何とか打ち込んで走らせてはみたもののエラーの続出、しかもエラーメッセージはすべて英文で表されている。マニュアルを見てもほとんど英字で、まず言葉の意味から調べていかなくてはならない。小学生の龍司には、もう、ニッチもサッチも身動きのとれない状態。
「お母さん、今にして思うと、Cをやるなんて、すごいたいそうなことを言ってしまったもんやと思う。C言語が、こんなに難しいもんやとは思わなんだ。知らなんだとはいえ、すごいことに首を突っ込んでしまったもんや」
(おや、ついにギブアップかな?)
「お母さん、こりゃよー、C言語やる前にまず英語やらなあかん、英語やるわ」
えぇっ、こりゃー以外な展開!・・・・・・
私にしてみれば、C言語で懲りずに、さらに英語をやるなどと、輪をかけて大それたことを言う、なんと世間知らずなやつだと思うのですが、本人は、英語さえわかれば、Cは必ず克服できるものと信じて疑わない、子供らしい無邪気な一面を見せるので、見守ってあげるしかないと思っているところです。
「じゃあ、英語どこかへ習いに行く?」
龍はすかさず手を横に振って、
「いやいや、そういうのはいや。僕はよー、好きな時、好きなように勉強するのが好きなのよー」
そこで、単語、短文をパソコンに自分で打ち込み、自分で決めた目標の枚数だけプリントして練習する方法が始まったのです。
『英語がよくできるようになる』という観点から見たら、こういう方法はけっして合理的な勉強方法ではないけれど、亀よりのろい足取りで、昨日より今日、今日より明日と一語一語練習しています。
小学五年生が、良い指導者もなく、いくら頑張ったって技術的な向上は亀の歩みどころか、亀の鼻糞にも満たないと思うけど、自分の意志で、まったく未知なものへ一歩一歩踏み込んで、わかるようになりたい、と言う気持ちを大切にしてあげたいと思います。
強制されてやる勉強ほどつまらないものはないし、身に付かないものはない。それに学校の勉強が難しくなると、自分の好きなことばかりしていられない。好きな時に、好きなようにやれる勉強なんて贅沢なことなのかもしれない・・・・・・個々の性格や成長の度合いを無視して、一定の時期に一定の知識を、しかも少しでも多く詰め込もうとするあまり、本来子供が持っている自然な知識欲を、歪めてねじふせてしまっているのではないだろうか。自分の知らなかったことがわかるようになるってことは、本当に楽しいってこと、勉強したいってことは、物を食べたいってことと同じくらい自然な欲求だってことを、どこかに忘れてきてしまっているのではないだろうか。過食ぎみで、全然味がわからなくなってしまっている・・・・・・
そして自分で自分を客観視できる年代になると、ああ、これは自分には難しすぎる、やっても多分無理だろう ―――― と、入口で尻込みしてしまう。もうそうなると勉強は苦痛でしかない。たとえテストの点が良くなくても、勉強は楽しいと思える子であって欲しい。勉強が嫌いだなんて、成人するまでの三分の一ほどの大切な時間を、拷問を受けて過ごすようなものだから・・・・・・・
無心な子供らしい知識欲がまだまだ旺盛なうち、自分の能力を自分で推量できないうちに、『一生懸命やれば僕にもできる』ということをひとつ体感させてあげることが出来たら、そのあとに続く道の、小さなともしびになるのではないだろうか。何も勉強じゃなくても、仕事でもスポーツでもその他の趣味でも、無心に取り組める『何か』、その子その子の個性に合ったものを、何か見つけて欲しい。苦労しても、必ずその向こうに心の充足があるということを、理屈でなく実感させてあげたい。
「ねえ、お母さん・・・・・日本語でも英語でも、ひとつおぼえて言葉の意味がわかるようになるとよー、その言葉がよく目に付くのよ、本とかテレビとかによく出てくるのよ。何でそういう時、よく出て来るのかなあ」
「それはね、言葉や文字は、龍が勉強しておぼえる以前からそこにあったんだけど、知らなかったから、龍が気が付かなかっただけなの。勉強したことによってそこで初めて龍にも、見えたり聞こえたりしだしたのよ。だから、勉強するってことは、字が読めるようになるってことだけじゃなくて、世の中が見えてくることなの、そのおぼえた言葉によって、感じたり、考えたり、話したりできるようになるってこと。今まで知らないでいた時より、自分の世界が広がるの、心が豊かになるってことなの」
そこへ割って入る小学三年生になる弟の直樹、
「あのよー、僕も勉強しとるんやけど、全然世の中見えてこんもー。それやしビンボーやもー」
お父さんも含めて一同大笑い。
「そうか、直は見えてこんか、そりゃー勉強が足らん!」
「直も一生懸命やればそのうちわかるようになるよ。たとえば百の漢字が書ける人と、十しか書けない人とどっちが偉いと思う?・・・・ どっちも同じなの。百個書ける人は百一になろうと努力せなあかんし、十の人は、十一になろうと努力せなあかん、いきなり百個や二百個にならなくたっていいの、百個知ってても、怠けとる人は、十しか知らなくても十一になろうと頑張っとる人よりだめな人なのやよ」
「ふん、直は、十よりもっと知っとるもーん」
と言って、もう顔はテレビの方を向いている、理解するにはほど遠い。
この子にも早く『何か』見つけて欲しい。ファミコンやテレビのように、受動的娯楽でなく、自ら欲し、継続して探求していけるような趣味を。
そんなこんなで、とりあえず龍司は英語を毎日勉強するようになって、ひと月ほどたったある日 ―――――
私が五才になる三男に添い寝して寝かし付けているところへ来て、
「少しここで寝とってもいい?」
「うん、いいよ」
薄暗い天井を見つめ、深いため息をついている。
「どう、少しは英語わかるようになってきた?」
「うん、少しはね。・・・・・でもまだ十万分の一ぐらいかもしれん、・・・・・もしかしたら一生かかってもおぼえれんかもしれん」
(今日はやけに弱気だな)
「お母さんだって日本語今だに勉強中やで、一生かかっておぼえられなくても、そんなことはいいのよ、どれだけおぼえたかは問題ではないの。・・・・・・今、龍司いろいろなこと考えとるらぁ? わかる時よりも、わからん時のほうが、いろいろ考える。考えることが大切なんや」
「うん、つまりその、・・・・・・・・耕すってこと?」
その言葉を聞いて私はついつい嬉しくなって、
「そう、耕す、耕すってことなのよ、耕す、耕す」
と何度も繰り返す。――――― 少しわかりかけてくれたのかなあ。
とかく暗いといわれる太宰治の小説ですが、ちょっと異質な明るさのある、『正義と微笑』という作品があります。主人公「僕」の中学時代の先生が、事情があって退職することとなり、作中最後の教壇で生徒に語りかける言葉なのですが、
お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、 いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、 もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、 大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間の ゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役 に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させる のだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、 けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではな くて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カ ルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でな くて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するとい う事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出 てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚える と同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘 れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っ ているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。 そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせって はいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!
『パンドラの匣』太宰治―――「正義と微笑」 新潮文庫
龍司がまだ、一、二年生の頃、
「なんで勉強せなあかんの、面倒臭いっ!」
と言っていた頃、私はこれを持ち出して読んでこんなふうに話してあげたのです。
「お母さん、中学生の頃これ読んで、この言葉すごく気に入ったの。けろりと忘れてもいいんや、なんて言われると気が楽になるに、公式や単語たくさん暗記している事が大切なんやない、なんて言われると、もっと楽しくなっちゃう。それで、カルチュアとかカルチベートとか、辞書で調べてみたのよ。
よくさぁ、カルチュアスクールとか、カルチュアセンターとか言って、普通は、文化って訳されているわけ、・・・・・文化包丁までいっちゃうと、文化という言葉も安っぽく感じるけど、でもカルチュアの語源は、農業に由来していて、耕すとか耕作するとかという意味合いが強いの。よい作物を作ろうと思ったら、畑けをよく耕さないとだめなように、人間も、生きて実りあるものにするためには、こつこつこつこつ、よく耕やさなくてはだめだってことを言っているの。勉強するのは、そのためのひとつの手段なの・・・・・
今はお母さんのこの話が何もわからなくてもいいの、お髭がはえる頃までになんとなくわかってくれればいいんやよ。今はただ勉強しなくちゃいかんけど、忘れちゃってもいいんやってことだけ聞いとって、また読んであげる。大きくなるにしたがって、人格とかカルチベートとかエゴイストとか、段々わかるようになって来る。髭おじちゃんになったとき、(あー、お母さん、なんやかけちなことごちゃごちゃ言っとったけど本当のことやったんやなあ)って思い出してくれたらいいな」
多分子供たちを前にもう十回くらいは、同じようなことを繰り返してきたと思う。
他にも言って聞かすことは、教え喩そうなどと、大それた気持ちからではなく、こうした勇気を与えてくれるような言葉、味わいのある言葉、美しい響き、言語表現の妙を、子供たちとわかち合いたいと思ってのこと。おいしいものをわけ合って食べたいと思う気持ちと同種、「この味、わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」というあたりの、私の道楽なのです。
―――― 今やっと、龍司はそのカルチベート一句、『耕す』ということを、感覚としてつかみかけている・・・・・
私は、手とり足とり書き順を教えたり、ノートを見てやったりしないのですが、時々のぞくと本当にひどい字を書いているし、作文といえばわずかニ、三行に誤字脱字の連続で文章になっていない。馬の耳に念仏で、全然理解してないのではないだろうかと、先が思いやられる。
(けど、親がやきもきして教えたって、そのことがどれだけ子供の力になるだろう、私は母親であって家庭教師ではないのだから、のんきな母親に徹しょう!)
などと聞こえはいいが、正直なところ、子供の勉強をみてやることなど面倒臭いし、例の説に従って、すっかり私も忘れてしまっている。そんな時間があったら、自分のカルチュアのために使いたい。結局、大人であれ、子供であれ、自分の畑けは、自分で耕さなくてはだめなんだって思っています。
龍司の生活について何か書いてと言われ、書き始めたら中途半端では終われなくなってしまってここまで書いてしまいました。それは、この際良い機会だから、少し対等に話しができるようになってきた龍司に、今の私の気持ちをなるべく正確に知ってもらった上で、これからの生活を頑張っていってほしいと思ったからです。こうやって書いてみると、何だか自分がすごく教育ママしてるみたいで、心配になって龍司に聞いてみる。
「お母さんって、勉強、勉強ってうるさい方かなぁ?」
「うーん、よそんちのことはわからんけどよー、のび太んちと比べたら、うるさくないと思うよ」
「えっ、のび太んち?」
「うん、ドラえもんののび太んち!」
聞き付けて、また弟の直樹、
「ううん、のび太んちみたいに、うるさーい」
(まあいい、のび太の家ぐらいなら、一般的な家庭なんだろう。そういえば、うちの子ものび太のようなもんだ)
誰でも、自分の子がかわいいし、いい子になってもらいたい。でもその気持ちを、「勉強しなさい」という言葉でしか表現できないような、言葉の貧しい親にはなりたくない ――――― そうは思っても、忙しいとついついその奥にある、千も万もの気持ちをはしょって「勉強しなさい」で終わってしまう。
美しい花を見てその美しさをゆっくり語り合えるような家庭のゆとり、受験やカリキュラムに縛られないで、勉強するって楽しいことだね、と語り合えるような学校のゆとり、そういう場を子供が育つ場として整えてあげられるような、社会のゆとりを、のび太んちのお母さんも、僕んちのお母さんも、母親はみんな願っていると思うよ。
龍よ、お母さんも結構ずぼらな性格なので、きちんと躾ることなどできず、今までずるずると来てしまったようだ。だから龍司も、ずぼらでなまけ者で、まだまだ甘えん坊で、精神的にも体力的にも弱い。でももうそろそろ、お母さんから離れ、自分の力で歩き出さなければならない。脅かすつもりはないけれど、苦しいこと、悲しいことが一杯ふりかかってくる。負けて欲しくない。逃げて欲しくない。なまけ者で終わって欲しくない。
とりあえずは、身の廻りのこと少しづつきちんとしていってほしい。身の廻りのことをきちんとすると、やる気が出て来る。C言語や英語をやるということも、自分で言い出したことなんだから、このまま頑張って続けて欲しい。こういう地道な努力こそ、将来、高い壁・厚い壁が立ち塞がった時、乗り越えていく力となるのだから。
そして、友達もたくさん作って欲しい。一人で乗り越えられないことでも、友達となら、助け合って切り開いて行けることがあるんだよ。
『独り立ちできる』ということは、何でも一人でやれるということではなくて、自分自身の責任をしっかり果たした上で、仲間と助け合って行けるということなんだ。
お母さんも、お父さんと助け合い、おじいさんやおばあさんとも助け合い、その他にも大勢の人たちに助けられて暮らしている。そして何よりも、龍たちがいることに、励まされている。龍は、「ことわる」って言うかもしれないが、お父さんやお母さんは、死ぬまで龍の親なんだから、龍の幸せをずっと願っている。でも、どうしたら幸せになれるかは、自分で考えなくてはならない。そのためのカルチュアなんだ。
龍のカルチュアは、今初めて、ひと鍬めを入れたところなんだよ。先生に進められて書き始めたんだけど、龍に応援歌として、これを贈ろう! 誰のためでもない、龍のためなんだ、そうでなかったら、もっと短くさらっと書いて終われた筈だ。お母さんだって、書くことは苦手だけれど、龍司にも、厭わないで書ける子になって欲しい。――――― よりカルチベートされるために。
『書く』ということによって、人は考えているだけの時よりも、もっと鮮明に、いろいろなことが見えて来る。普段、忙しさにかまけて、よい母親ではないけれど、また少し、龍司の成長が見えてきた。龍司のだめなところも、お母さんのだめなところも見えてきた。
『書く』ということによって、人は考えているだけの時よりも、もっと迷い、立ち止まる。龍司達が、この先どうやって、大きくなって行くのだろうかと。お母さんの考え方にも、間違いがあるかもしれなと。
ちょうどよい機会だったね、龍が声変わりして、貝のようになりかけてしまってからでは、お母さんだって、こんなこと、気はずかしくって言えやしないと思うよ。
これから、たくさん言葉をおぼえ、大いに意見を戦わせて行こう。お母さんも、まだまだ、一生懸命自分を耕す。
龍よ、頑張って耕して行こう!
平成5年 5月 10才の龍司に贈る。
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