夏休みの一研究'95

〜刃物鍛冶の仕事〜

制作・吉本龍司 1995/08  (本ページ制作1996/10/02)

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まえがき

 僕のひいおじいさん原勝次朗は坂下町に生まれる。昭和3年鍛冶屋を開業。商号を五味尚春鋸店とする。今年89才をむかえたがまだまだ元気でいる。 僕は鍛冶屋についての話を聞いて以下のようにまとめた。同時に現在の刃物産業の事についても調べた。


目次

1.おじいさんの歴史と昔の鍛冶屋の様子

1.年表

2.修行への旅立ち

3.修行時代の暮らし

4.徒弟制度の概要

5.独立、開業

6.材料と道具

1.材料 玉鋼

2.材料 洋鋼

3.材料 炭、油

4.道具 ふいご

5.道具 せん、刃槌

6.道具 そのた

7.鋸の製造方法

8.鋸の種類と使い道

9.ひいおじいさんが主に作った鋸

10.戦争時代の仕事の様子

11.製造工程、作業の変化

2.消えていく鍛冶屋の仕事

3.まとめ


1-1.年表

1908年2月

(明治41年)

誕生 坂下町時鐘に生まれる

7人兄弟の三男

1922年5月

(大正12年)

出発 長野県諏訪郡茅野横内にある、五味春永という鍛冶屋へ修行にでかける。
1928年12月

(昭和3年)

帰郷 6年間の年期を終えて坂下に戻る
1929年

(昭和4年)

開業 坂下町時鐘に鋸鍛冶屋を開業

中津川で兵隊検査を受ける。兵役免除

1930年

(昭和5年)

結婚 坂下町時鐘の早川きぬと結婚

昭和6年、長女生まれる

昭和9年、長男生まれる

次男、三男、四男相次いで生まれる

1939年

(昭和4年)

開戦 第二次世界大戦始まる。だんだん物資が不足して鋸製造のための資材が入らなくなる
1941年

(昭和16年)

  鍛冶屋ができなくなったために、いろいろな鍛冶屋が組合を作って

現在の駅前で軍需品の工場を始める

1945年

(昭和20年)

終戦 戦争が終わっても物資が不足していたために、しばらくは目立て専門となる。
1950年

(昭和25年)

  勝次郎の長男、原立男が中学校を卒業し、夜は坂下中学(今の坂下女子校)へ夜学へいき、昼は鋸製造の仕事をした。そのころには、材料もきちんと入荷するようになっていた。
1955年

(昭和30年)

機械化 ベルトハンマーやグラインダー等を導入し量産できるようになり、名古屋の問屋におろした。
1960年

(昭和40年)

転業 鋸の製造を打ち切って、大工道具や、金物の販売を坂下町乙坂して始める。

1-2.修行への旅立ち

1-3.修行時代の暮らし

1-4.徒弟制度の概要(茅野の場合)

1-5.独立、開業

1-6-1.材料1 玉鋼

1-6-2.材料2 洋鋼

1-6-3.材料3 炭、油

1-6-4.道具1 ふいご

ふいごの音(wav 236k)

1-6-5.道具2 せん

1-6-6.道具3 その他

鍛冶屋の音(wav 275k)

1-7.鋸の製造方法

1-8.鋸の種類と使い道

1-9.ひいおじいさんが主に作った鋸

1-10.戦争時代の仕事と様子

1-11.製造行程、作業の変化

2.消えていく鍛冶屋の仕事

3.まとめ

.ご意見御感想は、ryuuji@takenet.or.jpまで.
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