軽便(坂川鉄道株式会社)

 ピーポッポ、ピーポポポと玉葱のような煙突から黒い煙をはいて走っていた軽便は、坂川鉄道株式会社といって、坂下から川上までに鉄道を敷き、夕森にある御料林(営林署)木材を運搬するのが主目的で、昭和へあと僅か、大正十五年十二月十二日、華やかに花火が打揚げられ営業を開始いたしました。


▲新坂下駅。煙突にも特徴があり、これは火の粉を防止するため

(一)ピーガタトン、ガタトン
        ガタトン ガタトン
   坂下行きの一番列車にゃ
   顔なじみの学生たちに
   里がえりしたお嫁さん
   出嫁ぎに行くおじさん乗せて
   いそぎます いそぎます
   材木五輌は 御料林の宝
   お客と一緒に運ばれて
   都会の市場へと送り出す
   ガタトン ガタトン

(二)ピーガッタンゴットン
        ガッタンゴットン
   奥屋行きの終列車にゃ
   顔なじみの学生たちに
   出張帰りの役場員
   買物帰りのおばさん乗せて
   くたびれてー くたびれてー
   肥料に飼料は農家が待ってる
   お客と一緒にとどけます
   重いぞガッタン えらいぞゴットン

      作詞 桂川 巴(川上村)



めばえた交通機関

 この頃の運搬用のものといえば、馬車だけで、自動車などは一年 に二、三回通る位で、自動車が通れば、仕事や遊びをやめて見えな くなるまで大人も子どもも見送ったものでした。
 夕森という大自然の材木運搬には、馬車などを頼っているような ことでは、川上の発展と、御料林(営林署)としての役割が十分に 果せないのです。そこで考え出されたのが、SLつまり軽便鉄道で あったわけです。
 この頃、日本には国有鉄道の補助鉄道として軽便鉄道が普及しだ し、日本各地で馬車や人力車に代って地方の交通機関として活躍し ておりました。



運 用

 この事業の開創者は、川上村の原頼幸氏(医師)で、宮内庁と交渉の結果、施工の運びとなり、資本金二十万円、工事費十万円で宮内庁と川上村の共同出資で運営される事になりました。概要は次の通りです。

■時刻表

奥屋発  新坂下着

6時13分 〜 6時55分
1時48分 〜 0 時30分
2時48分 〜 3 時30分

新坂下発  奥屋着

9時25分 〜10時08分
1時05分 〜1時48分
4時20分 〜 5時03分
○新坂下駅駅長1坂下駅の東側で営林署の貯木場本社もある
駅手2
○稲荷堂無人樋ケ沢の稲大門寄り稲荷様前
○上大門無人蔵田寺より東北の山寄り機関車の給水所があった
○森平駅長1東野商店附近
○奥 屋駅長1奥屋バス停附近
駅長2
駅手2
○丸 野無人夕森公園内
坂下営林署丸野治山事務所

■本社

 社長(名誉社長)/ (1) 原 亮
 専務取締役 / (1) 竹内宗一
 庶務 / (1)
 線路工夫 / 坂下地区 (3) ・川上地区 (2)
 機関庫 / 機関手 (2)・助手 (2)


 貨物専用として一日二往復と、通学通勤者の便宜を計り貨 客車として一日三往復しておりました。その他、特別臨時列 車は出たが、材木運搬用だけでした。
 客車(マッチ箱型)をつけた車両は、奥屋より出発して新 坂下駅までで、当時の汽車賃は
   奥屋〜新坂下……十八銭 森平〜新坂下……十四銭


構造と運搬

 距離は、約八キロメートルで時速八キロメートル でしたが、実際は下り坂のため時速十キロメートル も十五キロメートルも出して四十五分で着いてしま いました。
 機関車は、蒸気機関車でオレンスティンウンドコ ベルといったドイツ製で、重量が五t、馬力四十馬 力で一台が六千円でした。レールは二十ポンド(約 九キログラム一本の重量)のものを巾ニフィート六 インチ(約八十センチメートル)という大変やさし い鉄道でした。
 客車は両側に向きあって座るようになっており定 員十四名という超小型でしたが、お盆や年末には出 稼ぎから帰郷する人で三十人も乗った事もありまし た。客車には、一人前の切符が発売され、列車が駅 に着くと車掌や駅員が、
「オクヤー、オクヤー。」
とか、
 「イナリドウ、イナリドウ。」
と、照れくさそうに呼んでいましたが、だんだん慣 れてくるにしたがってずるくなっ て呼ばなくなってしまったそうで す。

定期旅客運賃表
切符と定期乗車券


材木運搬方法

 材木の運搬は、普通は三両に三 十五石位ずつ積んで、その後ろに 客車を引いて最後に貨車を引いて いくのです。ブレーキは手動式のため、制動手と車掌がブレーキを かけたり、ゆるめたりして操作をするのです。機関車からの合図は 「ブレーキかけれ」(ボーボーポー)。「ブレーキはなせ」(ポ〜〜)。といったふうになっておりました。
 又、重連といって機関車二両で、六両に材木を積んで最後に客車を引いていくということも時にはありました。
 小県武夫氏(川上村)の話によると、事故は、死者も重傷もなか ったのですが、三人ばかりひっかけほんのかすり傷ですみました。 その中で一番恐ろしかったのは、丸野を出発して橋を渡って奥屋へとスピードを出した瞬間、目の前の線路の真中に赤ん坊が寝ているでぱありませんか。びっくりこいて、ブレーキをかけたが間に合わず機関車の下に入れてしまいま した。心臓はどきどきするし青ざめて助手と共に飛びおりて引き出してみると、
 「オギャー。」
と、声を出しました。枕木の跡が足に少しついたほんのかすり傷だけですみ、全く奇跡的に助かり本当に胸をなでおろしました。後から聞いてみると兄が弟を線路においといて、遊びこけていたというわけでした。
 駅従業員の休暇は、交互に取った関係で駅員や車掌のように誰にでもすぐ出来る仕事には、よその職場からも助勤 をしてもらいました。その頃には、労勤基準法もない時でしたから不満も言わずに一生懸命働きました。
 営業開始三年目の頃、世の中がだんだん不景気になり、この鉄道もそのあおりをくって合理化が実施され、五人が 馘首されるという大事件が起りました。
 合理化以降の駅の仕事は殆んと兼務となり機関手や車掌が非乗務の時には駅長をやり、線路工夫が車掌をやるというぐあいでした。この頃の給料は、全員が日給制で日給月給の形として、日給の最高一円四十五銭、最低五十銭でし たが、合理化の人員整理があっ てからは最高一円二十銭に減給 され、超過勤務は十一銭加算さ れました。稲荷堂までの長石運 びは超勤にはなりませんでした。 日雇い七十銭位の時ですから、 坂川鉄道は高給取りで若者の憧 れでもありました。




人間とのかかわり

 軽便とそれを利用した人間とのかかわりは、数々のエピソードを生んでいきました。
 軽便とマラソン。奥屋からマラソンをすると人間の方が速く駅に着いたとか。宿直の機関助手(通称かま焚)が、前の晩、どこかで遊び過ぎて朝寝坊して蒸気をあげていない(機関車が動けるだけの動力が出来ていない)ため定時に発車することが出来ないので、下り坂まで学生や若い乗客でオイショ、オイショと押して走り、あやうく本線の連絡に間に合ったとか。時速が出過ぎて早く坂下に着いてしまうので、稲荷堂で休息して栗拾いをしたとか。帰りには登り坂で客車から飛び降り、小便まって又飛び乗ることが出来たとか。勾配の強い上り坂は力つきて止りそうになるので、
 「お客さん、降りて押してくれ。」
と、頼むと、嫌な顔をせず学生なんか吾先に飛び降りて惰力のつくまで押してくれたといいます。又、乗っていて木の枝を取ろうとしたら落ちて、
 「まってくれ。」
と、言って止めてもらったりしました。


廃  止

 昭和十九年十一月三十日、廃止になってしまいました。その後、林野庁で譲り受けガソリン機関車が代用しておりましたが、トラック輸送に切り換えられると、軌道は撤去され鉄道の敷地は林野庁から川上地内は川上村へ坂下地内は坂下町へそれぞれ無償で払い下げになりました。今では線路の後は道路となり橋台もまだ残っています。
 当時を思い出された小県武夫氏(川上村)は、のんびり走る汽車の窓から、平和でのどかな一幅の絵のような川上村を懐しく思いえがかれ、汽車と人間との家族のようなふれあいの当時の心を現代に取り戻したいと語られました。


坂川鉄道株式会社定款(1)
坂川鉄道株式会社定款(2)



参考文献と話を開いた人
木曽の森林鉄道
日本の軽便鉄道…立風書房
坂下町史
川上村広報
川上村史
小県 武夫(川上村)
小池  昇(大 門)
桂川  巴(川上村)
竹内百合子(中之垣外)