さく どう
索道(飛騨索道株式会社)


 索道とは、今のスキー場にあるリフトを大規模にして、いくつか継いだものと考えてよく、その中継点が駅になって荷物の積みおろしをしたものです。

索道誕生

 飛騨索道とは、坂下から益田郡三原まで、約四十Kmの遠い所へつなげた、とてつもない工事をしたのです。
 この索道を作った目的は、三原に発電所を作るために、中央線坂下駅から、セメント樽を始め建設資材を運ぶためです。
 当時の交通機関は、中央線が開通しておりましたが、高山線は金山までしか開通しておらず、北恵那鉄道も開通しておりませんでした。飛騨へ通ずる道路はぐてしのようにねりこみ、馬車では一台に弱い馬で四樽、強い馬で五樽しか運べず、一日平均二百五十台を要する計算となり、それだけの馬車を用意することは出来ませんでした。
 ここに、世紀の大事業とまで言われる索道運搬が、武藤嘉門氏(元知事)の手によって施工されることになったのであります。この頃、武藤氏は岐阜県の運搬業を一手にひき受けた事業家でありました。

世紀の大工事

 工事は、大変に困難で資材運搬には馬車と大阪から運んできた牛車を利用して運びました。例えば架線用ワイヤーは、巻五百貫もあり、それを運ぶのに、牛は一台で運び、馬は前車に半分、後車の馬の背へワイヤーを乗せて後車の車に半分乗せて運んだのです。
 索道架設工事は、里美工業所(大阪市)が請負い、下呂方面、付知方面、坂下方面と三ヶ所の工事場でそれぞれ進められました。
 工事を始めるまでには、通過区間の地元の了解を得なければならないわけですが、今のような保証問題で猛反対はなかったとはいえ付知地区の広屋林附近では高くせよとの声が強く、止むなく駅を二階建てにしたという事です。
 支柱及び鉄塔(櫓)は、山の斜面にさしかかると間隔を五十m位に狭くし、谷間は広くしていく事と、高さが三十mまでは杉材で組み、三十m以上は鉄塔を建てたのです。鉄塔は付知までに小野沢の酒屋の上と田瀬の宮脇と二ヶ所ありました。
 支柱の組み方は図のようでありますが、最初にセメントで基礎を固め、杉の丸太を四本組み合わせるのです。高いのは次ぎ合わせて組み、バター(組み立ての横木)で固めながら、筋かえは杉の木を二つに割って組みとめます。登れるように梯子をつけたわけです。
支柱の上には、横木をとりつけ左右に滑車を二個ずつ付け、丁度電柱のような恰好にしたのです。支柱の中心は、き ちんと真直に出来ており見事なものであったそうです。中断所や駅で方向を変え、それから真直に支柱を建てたわけです。
 長い区間であるために、ワイヤーを回転させるには、五十馬力ものモーターを三ヶ所に取りつけました。川上の上 川原と、付知の大門と竹原の宮地につけ、そこでは約二・五m位の車輪を二つつけ、一万からきたはんき(荷物運搬 籠)を他方の回転している車軸に人力を利用して誘導して送ってやる方法にしたのです。車輪の下にはモーターから の車軸が歯車でかみ合っておりました。ワイヤー張りは、人力で引きながら支柱の横木にかけていき、モーターのあ る個所でかぐらさん(木で作ったものでしめるもの)でしめつけて張ったものです。



セメント樽・はんき・駅区間図


創業開始

創業開始大正11年6月
廃  止昭和6年
建設費用約50万円
創設者武藤嘉門(元県知事)
輸  送約5年 発電所建設物資輸送
約4年 民間輸送
 創業開始は、大正十一年六月で、社長は、武藤武吉氏(嘉門氏の娘婿)、事務所は坂下におかれました。出発起点 (索道駅)は今の坂下駅近くの横平写真館のまわりで、倉庫も事務所もありました。
 坂下索道駅には、常時十二、三人が作業員として働き、中継所には一人、各駅には二人位配置されておりました。
 はんきには、セメント樽(約五十貫)をシートでつつみ一こずつ乗せ、五十m間隔位 でどんどん運ばせ少しばかりの資材は一緒に乗せて運びました。
 仕事は、雨の日も、雪の日も続けられ、朝七時には、はっぴ姿にはち巻き、地下足袋 にゲートルを巻きいきのいい仕事着で作業開始夕方五時以降まで続けられました。だが 一番こわいのは風だったそうです。つまり横ゆれで、はんきにぶらさがっている資材が 支柱に衝突するから恐しかったと、当時仕事にあたった人が語られました。
 この索道には、一日に一回油さしが必要で、原則としては梯子に登ってさすのですが 一々面倒であるので、はんきに飛び乗って支柱に飛びおり油をつけ、又はんきに飛び乗 ってつけていくというまさにサーカスまがいをやってのけたと、伝馬町の永室英三さん は笑って話されました。工事期間中は一人は田瀬の付知川上空で、ぼんきがさがり過ぎ て送電線に接触して落ち、もう一人は上鐘で、衣類がワイヤーに巻きついて即死された と聞きます。
 一万、三原発電所工事も急ピッチに進み、五年余りで建設資材運搬は終わりました。
それからは、地元の人々の願いにしたがい、この索道は飛騨方面へは、塩、雑貨類、製 糸用の物資を、飛騨からは、木炭、薪、板、枕木、材木と、飛騨物産を運ぶ事に四年余 り利用されました。
 特に、下呂からの材木運搬は、はんきニつに材木を七、八本も積み、落ちないように ロープでしばりつけて坂下まで運びました。






加子母村万賀駅のがんき(歯車)前での従業員一同(拡大)▲



エピソード

 油つけは、長い間には面倒でま さに油を売っでさぼった事もあっ たそうです。はんきに飛びのり、 空中をまるで鳥のように動いてい ると村の子ども達が下から、
 「おーい。」
と呼びかけ、
 「おーい。」
と答えていくあたりは、空中のお となと地上の子どもの、心と心が通じ合う爽快な一幕でもありました。
 上野の悪童連は、学校帰り(高等科)にこっそりと川上で索道に飛び乗って小野沢へ着くと飛び降りたり、小野沢 で飛び乗り酒屋の上空を乗って行き、鳥屋近くで飛び降りたりしてスリルを楽しんだものでした。
 九年間には、支柱の補習工事をしたり、速度アップをするために、ワイヤーをまわすプーリーを大きくしたり、色 々と苦心がありました。
 時は流れ、北恵那鉄道が大正十三年に開通し、高山線も富山まで開通するようになり、道路も整えられると、この素道も人々に惜しまれながら昭和六年に幕を閉じました。
 その後取りはずされたワイヤーや資材の一部は、長野県篠ノ井駅から西篠への石炭運びに利用されました。
 坂下では、島井田の保ヶ山の吊り橋にワイヤーが利用され、人々の役に立ちました。


思い出

 当時、青年の氷室英三氏(伝馬町)は、油さしの仕事に従事され、月給日給で一円四十五銭から一円六十五銭の高 給取りで、(当時日雇い五十銭)川上村では、村長さんに次ぐ月給取りでもありました。
 夕方仕事を終えて時々コップ屋の土岐のおばあさん(土岐前収入役宅)で一杯ひっかけ、そこの悪坊(土岐栄氏)の足を縄でしばってからかったものだと目を細めて笑われました。



参考文献と話を開いた人
坂下町史・付知町史・加子母村史・加子母の歴史と伝承
氷室 英三(伝馬町)・川内五郎一(小野沢)
山内 総爾(小野沢)・原 吉六(新田)
林 彦太郎(握)・原 恭夫(中外)
川内誉次郎(小野沢)