と や
鳥屋
鳥屋とは、見通しがよく渡り鳥の通り道になる雑木の多い山に小さな小屋をかけ、その廻りにカスミ網をいくつも
張って煤鳥(飼育して、呼びよせるために使うおとり)で誘いをかけ、鳥の群を呼びよせてとらえるところのことです。
カスミ網猟になるまで
坂下では、昔から鳥屋が盛んで、農閑期の副業として営まれておりました。明治の初期までは狩猟法も簡単で、コブチ(木の枝と枝との間がバネになっていて鳥がさわると、はねる仕掛になっている)ではさんでとったり、罠でと
ったりしておりましたが、もち鳥屋(せせりといって、木綿針を半分に折って鳥の鼻に通し、糸を八の字に一まきし
て二尺位のばし、それを三〜五羽竹竿にしばって人間があやつる。もちは細竹に、ほうのきの枝をつけてそれにぬり、
いくつも立てておびきよせ、人間は木の枝を組み立ててその中に入る簡単な小屋)が盛んになるとよくとれるように
なりましたが、何といっても網の発達によって、その全盛期を迎えることになりました。
網の発達
| | 麻の極細 | (最初は麻糸を二筋ずつよって編んで作る) |
| | 綿糸 | (麻よりいい。雨に弱い) |
| | 絹糸 | (雪がつかないが耐久力がなく、二・三年で駄目になるし、値が高い) |
| | がす糸 | (非常に多く用いられた、十年位使えた鳥屋の全盛期に使用する) |
| | 化繊 | (非常に耐久力がある。値が安いが、鳥のかかりが悪い) |
↓ | | |
野鳥の味
鳥屋の好きな連中は、先を争ってよい山を探し、いいおとりを飼育して、秋のシーズンに勝負をかけたものです。
柿の実が熟し稲刈りの頃になると、きまって始まる野鳥の味が忘れられないし、酒の肴に時たま出るウルカ(鳥の
腹を塩にしたもの)の渋味が喉を過ぎていくのも忘れられがたく、山々を眺めてそわそわし出したものです。
今、カスミ網禁止の制度の中で、郷愁のほんのかけらとして慰めてくれるのは、うずら鳥屋のいろりの火でうずらを焼きながら、野鳥の味を思い出してはなつかしむのです。
中津川市にあった料理鳥屋▲
鳥屋場作り
鳥屋場は、南向きの稍斜面な場所を選び、大木は切り倒し網場を作っていきます。中位の木は頭だけを切って、大きな盆栽のような形にします。もやになるのや、笹などはきれいに刈って片付けてしまいます。毎年同じ場所でやられる所は天然の盆栽のようになっており、松なとは見事な形をしています。(高峰、後山、松山、上野の各地)この仕事は、もう夏から始めて彼岸頃まではすましてしまいます。
カスミ網張り
網の張り方は、小屋から一番遠い地点に本網を張ります。これは二・五尺〜
三尺の間隔に六、七棚、長さ六〜七間を竹竿に竹輪をはめこんでつなぎ、上げ降しが自由に出来るようになっております。
内側には、小網といって一.五尺〜二尺の間隔に二〜四棚で長さ三間位のものを、二重にも三重にも縦横にも細竹で張りめぐらせます。そして網と網との間にはすべこ(新しく取った鳥で、おとりにするため餌付かせている鳥)をおいたり、鳥籠に入ったおとりをおいてさえずらせるようにします。
媒鳥(ばいちょう)
おとりの飼い方は、先ず網にかかった鳥の中から、雄であること、毛色がよくて、姿のいいもの、目が大きいものを選別して、それを餌付けます。餌付いた鳥はすべこにしてなかまを呼ぶように慣します。
ー冬越して更に選別して飼っていきます。夏は水浴びを一週間に一回位させ、秋になって油が乗り過ぎたのは、二日にー回は水浴びをさせて油をとり太りすぎないようにします。彼岸も近づいて来ると、そろそろ餌張りを始めます。よくさえずるように力付けるのです。
おとりのいい悪いによって、鳥屋の勝負は決定するのです。上野の山内総爾翁はツグミの名鳥を十八年も飼い続けたと言われました。
▲ある鳥屋の中の媒鳥
|
時期
鳥屋の許可証▲
|
鳥とりの解禁は、十月十五日頃から翌年三月までですが、一番の適期は十一月初めから十日間位です。丁度稲刈りの頃で、男衆は心も落着かず大急ぎで刈取りを終え鳥屋へ出掛けて行きます。後は家で、女の衆が取り人れの始末をしていきます。
鳥屋に熱を入れる人は、奥鳥屋と里鳥屋を持っており、最初奥鳥屋へ入りこみます。そこまで鳥、網、食料、布団等運ぶのに随分骨の折れることです。人を頼んだりして準備をします。
遠くへは、越前や郡上へまでもいった人もおりますが、大抵は付知や川上の奥へ行ったものです。ここで雪がかかる頃までいて、後は家の近くの里鳥屋へ移ります。ツグミが多く来た奥鳥屋にかわって、里鳥屋は小鳥が中心になります。
鳥とり
夕方降ろしておいた網を夜の闇が白々と明ける頃、網を上げて張り、おとりやすべこを小屋から出して準備をします。
五時を少しまわりシナイがツルーツルーと鳴き出して来ると、それにつれて六時頃からツグミがクィクィ、アトリはジャアジャア、その他の小鳥もツンツンと鳴き出しておとりをめがけて降りてきます。ツグミやアトリの群が大空を何段にもなって飛んでいき実に壮快な光景です。その時です。おとりの内の名鳥は上空を飛んでいく鳥を、すばらしいさえずりによって引きつけます。ここで媒鳥のよしあしが決定されるのです。
手にぼい竿、(追払い棒といって先に布切れ(甲斐絹=生糸で織った絹布)をつけたもの)を持ち息を殺して待ち構えます。二、三度旋回した群は、おとりめがけて鼻鳥(集団の先頭の鳥)が群を引き連れて飛び込んできます。その瞬間、竹棒でブブブプと追い払うとまたたく間に網にかかるのです。こんな場面が一朝に十回以上もあります。この一瞬は緊張と喜びで何とも言えないと経験者は語られます。
こんな事が繰り返され、太陽も高くなってくると、もうそれからは遊び鳥が少しずつかかるだけになります。一息入れると鳥はずしにかかります。大きな袋を腰に縛りつけ、鳥を網からはずしては入れ、腰の袋の重さに満足感を味わいながら、網の間を歩きまわります。
昭和二十年頃・山内総爾翁推定
米 一升 五十円位
ツグミ一羽 三十円位
小鳥 一羽 八〜十円
|
奥鳥屋では、一朝にツグミを三百羽から四百羽も取ったり、アトリを千八百羽も取ったとか自慢話も飛び出してきました。
昼過ぎには、遊び鳥のかかったのを見廻って取りはずしたり、網の修理をしたりしてのんびり過ごします。
夕方近くになって、ひょっとかすると群が来ることがありますが、まあまあ極く稀れです。その間に、薪の準備、水汲み、夕食の仕度、おとりを小屋の中へ入れたり明朝に備えるのです。
陽が沈むと、山の夜は早いものです。もうこれまでに全部の仕度をしておかなければなりません。夕食が終わると、小さいランプの灯のもとで一日の労働の疲れも出て、明日を夢みながら深い眠りに入ってしまいます。
媒鳥には、夜通しランプの灯を与えて活動させ、もはや三時には起きて餌を与え、鳥の腹仕度を整えさせて来鳥を待つばかりに準備をします。
とった鳥は、町へ持っていって売ったり、鳥買い専門がいて鳥屋まで買いに来たりしました。
鳥屋遊び
焼鳥を食いに行って、鳥屋の一夜をこんなふうに過ごしたのです。
夕方明るいうちに辿り着いて、早速鳥の毛をむしって串にさして、いろりのまわりにさして遠焼きを始め、薪の煙のけぶたいのをおいやりながら、酒の準備も整えます。プーンと匂ってくるかおり、プップッと落ちる油、たれをつけてあぶり、まだ血の気のしたたるような鳥にかぶりつくうまさは、何とも言えないのです。
酔がまわり、後片付けもそこそこにして、いろりに代用の櫓をすえてこたつを作り、それに布団をかけます。着て来た防寒着は臨時着布団となり、転寝をして夜明けを待ちます。早やしんしんと冷えてくる長い夜も白々しだすと、
眠りからさめ、冷や酒を一杯ギュッとひっかけ体を暖めて鳥の群が
来るのを待ちます。
壮快な朝の一コマが終わると、又、鳥を焼く準備にとりかかり、
たらふく食い、焼鳥で味わう酒の酔いで小屋から飛び出して踊りま
わる事もありました。この後、煮干しの入っていない味噌汁に大根
のぶった切りを入れた汁がうまいのです。又、栗のこっぱを洗って
味噌をのせて焼いたり、きのこを焼いて食うのもおつなものです。
山に住めば、人間はそこで生活の智恵を出し束の間の楽園をつく
り出すのです。
鳥の漬け方
鳥の腹を縦に割って、腹(ぞうもつ)を取りさり、麹をつけ、醤
油とみりんを少しずつ入れながら瓶に重ねるようにして漬けていく。
水上げをしない場合は塩をたす。よく漬かった鳥を、もう一度麹で漬けると大変おいしくなる。
※うずらもこのように漬けるとおいしい。
うるかの漬け方
鳥を漬ける時にとり出した陽に塩を入れてならし、丁度、いかの塩からのように漬ければよろしい。
→たれ・餌の作り方
○ | 鳥屋には、だまし鳥屋(媒鳥でおびきよせる)と根越し鳥屋といって山あいに網を張って飛来してくる鳥をとるのと二つのとり方がある。 |
○ | 大正二年の内田清之助博士によるツグミなどの食性調査によって、益鳥であることがわかり、鳥屋禁止の示唆がなされた。 |
○ | 昭和二十一年GHQのオースチン博士が鳥屋を見てまわり、その残虐と無謀な大量捕殺におどろき、これを禁止させた。 |
参考文献と話を開いた人
現代の民話(嶋井幸一 )…大衆書房
山内 総爾(小野沢)
吉村 米吉(小野沢)
山内誉次郎(小野沢)
古田 努(本 郷)
林 虎雄(本 郷)
伏原 鉄一(小野沢)
林 辰彦(樺ノ木)
|