紙漉き(坂下手漉き障子紙)


 四方が山に囲まれた坂下は、山の斜面や原野が多く、それに美しい水の谷川にも恵まれており副業として紙漉きが栄えました。
 冬期間の農家の副収入として「紙屋はしんしょ、綿屋は貧乏。」とまで言われたように、かつてはなかなか景気がよかったのです。
 紙すきの条件として、坂下は適当に気候が凍みるし紙すきに必要なきれいな水にも恵まれています。


手漉きの小史

 古文書によると、一七九三年(寛政四年)に原弥助という人が坂下紙を漉き始め、だんだん普及していき、御蔵紙(帳簿用紙)として苗木藩主へ献上し、参勤交代の折りには将軍へも献上したり、藩内紙幣に坂下紙が用いられたりし、当時の農家の冬の副業としてすばらしい生業でありました。
 明治の始めには、十八戸の農家で紙漉きをしており、文明開化の声を聞くと坂下紙も脚光を浴びるようになりました。
 日清戦争から日露戦争にかけて、手漉きの全盛期で共同販売機関(西方寺)も出来、仲買人もおり販路も広くなっていきました。又明治三十一年四月二十五日、坂下実業学校に養蚕科目と合わせて製紙科目も設立され、製紙技術を農村青年に指導するようになって益々発展していき、一時期は百五十戸を数えたとも言われています。(原吉郎翁・新田の推定)
 大正時代になり、第一次世界大戦の好景気によって稍、専業的要素を示して業者は限定され、生産量がさらに増えていくと、人の力だけに頼っていた紙漉きに、叩解機(繊維をたたいて細くする機械)が導入され、続いて楮たくり(煮潰しと漂白して楮の表皮をこそげ取る作業)から解放され、つまり二大改革によって生産が更に増していきました。
 一万、農家の夏の副収入として養蚕が盛んになり、小さな紙屋は 養蚕に切りかえていきました。
 昭和の初期になって、不景気のあらしが坂下にも及んでくるよう になると、障子紙の売れ行きも悪くなりましたが何とか生産を支え ていきました。それは、パルプ、ナイロン等の混入された障子紙が 市販されていなかった理由があげられます。
 太平洋戦争から第二次世界大戦となると、原料難に人手不足、そ れに薬品購入の困難、そして統制統制、おまけに温床紙、障子紙の 供出があり生産は底をつく状態になり、終戦を迎えると三十六戸が 細々と息をつないでいました。
 昭和二十三年三月一日、坂下和紙事業協同組合が発足し、坂下の 地域を三つに分けて共同作業場まで作り、将来への夢をたくしまし た。
 朝鮮動乱によって、紙漉きの景気はよくなり『売れるわ、売れる わ。』で一杯飲みながら百円札の一尺祭り(百円札を一尺位積んで 飲もまいか)まで飛び出してきたのも、一瞬の夢に過ぎなかったの です。それは、機械漉きの障子紙が全国に氾濫したため、手漉きの 障子紙としては値段で到底大刀打ちが出来ず一戸やめ二戸やめてし まい昭和三十七年、夢を託した組合は遂に解散総会までにいきつき、 又、個々の農家が副業として続ける紙屋は僅かばかりとなってしま いました。
 障子紙の機械化生産のあおりをまともに受けて、年々苦しい憂き 目をおい、現在では楯安治さん(新田)一戸が採算を度外視して先 祖伝来の紙漉きを絶やすまいと続けてみえます

坂下和紙事業共同組合・組合員名簿(1)
坂下和紙事業共同組合・組合員名簿(2)


つらい夜業

 楮(こうぞ)は、秋の取り入れを終って切り始め、二月頃までに切りとります。それは冬場は楮の皮の部分が厚くなっており歩止りがいいのです。
 楮を三尺位に切断して、蒸し桶に入れて三時間位蒸します。蒸し た楮は皮むきをし、皮を束にしてはざに干し更に二束を一緒に一束 にして、反対側にしばりカリカリに干し上げます。こうして置けば 何年貯蔵しておいてもよいわけです。
 寒さが厳しく、凍るようになると乾燥しておいた皮を川へ運んで つけておき、夜川岸へ引き上げて凍みらせ、朝、又川へ入れてこれ を三日三晩繰り返しますが、昔はゴム靴がなく素足素手で水と風の 冷たさに身を切られる思いがしたと言われます。
 川から持って来て、夜業仕事にいろりのまわりでかぞたくりを始 めるのです。たくり台に渚の皮を置いて一筋一筋鉄板をあてて表皮 を取り除くのです。いろりの灰と煙りをかぶりながら夜深くまで 続けられました。


紙漉き工程

明治以後、大きく工程が三つに区分されるようです。
@手と道具を使った時代(大正初期まで)
A手と動力を使った時代(昭和初期まで)
B動力と手をかける時代(現代)

 ここでは、全盛期のAの紙漉き工程について綴ってみます。

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@貯蔵しておいた白くなった皮を灰汁煮(あくに)といってソーダ灰液で繊維がよくほぐれるように五時間位煮ます。
A煮た繊維を釜から出して、きれいな水の流れて いる川小屋へ繊維を運び、灰 汁出し笊(ざる)に入れて棒の先でよ くさばきながらゴミを取り除 きます。大変に根気のいる仕 事です。
Bきれいになった繊維を、楮 打ちといって堅い木(ミヅメ 等)で厚さ二寸、長さ六尺、 巾三尺位の台の上において樫 の棒でたたいて綿のようにな るまでたたきほぐします。樫の棒で台をたたく時、台と棒とがうまく一致しない時は、手にキーンと響いてひびやあかぎれから血が吹き飛び非常につらい仕事で、夜の十一時過ぎまでも続けられました。子どもごころにそれは親爺の恐しさに我慢して労働に耐えたが、その中でも唯一の楽しみは夜業の後、おふくろの焼いてくれた餅を食べることでありました。
Cすき舟(木箱)の中へ繊維三十%、水七十%を加え、マンガ(かきまぜ機)でよくかきまぜて糊状にします。その中へネベシの液(かたまらせるため)を加えます。
D紙漉きは、細い竹で編んだ箕(み)を木枠で上下から押さえた箕ごての両側を持って、すき舟にある糊状をすくい上げ、前後左右に振りながら十回位繰りかえし水切りをします。ただこれだけのことですが、手加減一つのコツであって、慣れないと紙の厚薄が出来てしまい、一生修業です。箕の上に出来た紙を一枚一枚重ねてどんどん積み上げていきます。


▲紙を漉いている(左)/楮の皮を蒸して上げておく(右) →拡大


E一日すいた紙を翌日ジャッキかてんびんで三分の一位になるまで圧縮して水きりをします。
F乾燥は、干し板(長さ七尺五寸、巾三尺位)に、水きりをした紙を一枚一枚丁寧にはぎとり箕面の方を板に張り(表面になる)つけます。この時のはけは餅藁(もちわら)で作ったにご箒でしわがよらないようにうまく張りつけていきます。片面に二枚ずつ張りつけるのです。乾き過ぎて遠くの山の方へ吹いていったこともあったそうです。
G裁断は、十二枚重ねて縦に半分に切り、それを重ねて二十四枚にして注文の寸法に切ると、一帖分が出来ます。
 一帖は、障子四本分で十帖分を一束にしたものをー本といいます。 →寸法基準




副業のゆくえ

 冬期間の農業の副業として支えた紙すきは、今では動力利用によって副収入から正収入の要素を持つまでにもなってきましたが、美濃市に見られるように機械化されたパルプ混入の障子紙に圧倒されて、極めて深刻な問題にまでなってしまいました。
 かつて川小屋で吹雪にさらされながら、朝早くからあかぎれだらけの冷えきった手でゴミ取りをしたお嫁さん。夜業に冷えきった楮の皮を川から運んで、いろりの回りでかぞたくりをしたり、紙たたき棒がいやが上にも手に響いて皮膚の間から血が飛び散り、夜が深まるにつれて、いろりの火が恋しくなった若者。その人達も今ではしわが幾筋も見られるようになりました。
 あのつらい仕事は、動力によってもう見られなくなりました。しかし、それ以上に『売れない』という現象にぶつかってしまいました。
 坂下障子紙は、パルプ入りの紙より確かに値は高いが、素朴な味があり丈夫です。
 新田の楯安治さんは、「江戸時代より続いた家業を私の手によってつぶしてしまうことは、先祖様に対して申しわけない。それに岐阜県優秀工産品選展示会で賞までとって五十年近くやってきた紙漉きに愛着があり、絶やしたくない。」
と語尾を強めて語られました。
 そして最後に、力無く言葉をはき捨てられました。
 「百姓の副業としては、成り立たんのう。」
 冬の夕暮れは早く、底冷えのする仕業場の外には雪がちらついていました。

※ 「生きた技術文化財」として保存を強調したい。




参考文献と話を開いた人
坂下町史
楯 安治(新 田)
曽我 靖(本 郷)
吉村 敏郎(松源地)
美濃製紙試験場(美濃市)