蚕業


種屋

 大昔から続いたお蚕飼いは、明治になってくると盛んに飼育されるようになり、坂下にも種屋が出来るようになりました。
 それまでは、自然生えを利用したやり方でしたが、良種の改良が要求され許可証が必要になってきました。
 明治二十三年、握の田□杢次郎氏や加藤才次郎氏が種屋を始められるようになり、坂下にも種屋が誕生しました。
 この頃の種屋の技術は、極めて幼稚なやり方であり、年に二回(春、夏)の飼育がやっとでした。

風穴貯蔵

 神坂の富士見台の中腹に風穴で蚕種を貯蔵する方法が発見されると、東野村の花無風穴と共に、俄かに恵那地方も躍動を始め、坂下も田□杢次郎氏を中心に風穴利用を採用し一大活気をみるようになり、蚕種は全国各地へ販売されるようになり、一時は需要に追いつけない位でした。
 神坂の風穴が利用される前は、白骨(信州)の風穴に貯蔵し運びこんでおいたり、随分と不便なことが多くありました。もっと前は伊那から総ての蚕種を取りよせているありさまでした。
 神坂の風穴が利用されるようになったのは明治十八年のことでした。その年の春、大霜が降って桑が全滅してしまい、何とか蚕の種だけは残しておくことが出来ないかと考え、神坂村霧ケ原の早川治郎八氏が風穴に貯蔵しておくことを思いつき、それがうまくいき成功したのです。そのことが切っ掛けで貯蔵するようになったのです。
 恵那地方の種屋が組合を結成し、宮内庁の許可をとり、いよいよ風穴の利用が本格化して来ました。大昔は、風穴のある附近は東山道(中山道が開かれる前に出来ていた道で、京都から坂本を通り神坂峠を越して阿智へ出て、それから北上して信濃へ通ずる道)として利用した道のまわりです。
 恵那山トンネルで有名になった富士見台は冬になると多くの積雪があり、その雪が解けて山へ浸み込み、高山という条件も加わり夏はすばらしい清水が流れ、あまりにも量が多く冷たい水であるため強清水(こわしみず)と呼んでいます。
 そのあたり一面に、天然の穴が浸食作用によってあいており、冷たい風が穴の奥から吹いてきます。その入口のまわりを石で囲い覆いをし、そこへ蚕の卵(二十八蛾付の台紙)を箱にぎっしり詰めて、馬の背などを利用して運びこんで貯蔵すると、冷蔵庫代りになり卵の発生をおさえるわけです。
 少し学問的になりますが、零度の状態で貯蔵すると百八十日位保存がきくが、神坂風穴は四〜五度であったため、三か月位しか貯蔵がききませんでした。
 各地に風穴の利用が広がり、全盛期には全国に百四十八ヶ所もあり、その中でも、この風穴は、富士見風穴、安曇風穴(長野県)と共に日本三大風穴と呼ばれていました。
 ここの風穴貯蔵によって、一度冬を越させる形をとり、七月二十日頃に出して秋蚕用にして養蚕家へ配卵するようになりました。
 このように秋蚕飼育が可能になると、農家では稲作の片手間に飼育することが出来るようになり、養蚕業は益々発展していきました。
 明治四十三年秋蚕用の種を利用していた方は、田口杢次郎(握)宮内広吉(握)原定次郎(大門)の三氏でした。
 もっとも盛んであったのは、明治末期から大正時代でしたが、特に第一次世界大戦を中心にして、飛躍的に発展しました。

信飛新聞記事


薬品処理法完成

 大正の初めに、蚕種貯蔵の薬品処理の方法が研究され、幾多の実験が繰り返えされて実用化され、どこでも貯蔵が可能になると、もう風穴貯蔵の必要がなくなり、大企業の進出によって零細な種屋はばたばたと倒産してしまいました。
 種屋のー人であった山内誉次郎翁(小野沢)は、当時の様子を台帳や日記を手さぐりしながら、「私が種屋を初めたのは、大正八年で、それから五年程やりました。最初、坂下実業学校へ進み、卒業してから助手をしながら種屋の勉強を学び、それから種屋をやるようになりました。始めた頃は景気もよく、なかなかよく売れました。確か、大正十三年頃だったと思いますが、京都の繊維学校で化学法の講習があり、私も一か月程勉強に行きました。その時はまだ実験の段階でしたが、以外に早く導入されてしまい本当に降参しました。
 化学法とは、塩酸を薄めてその中に卵を漬け、それを取り出して保存する方法です。
 大会社による品種改良と宣伝活動によって、個人経営は大刀打ち出来ず、涙をのむ結末となりました。
 私は、多勢の子どもをかかえ、借金の返済に困り、家をはたいて、新しくこの地を開拓しながら、現在の家に住まうようになりましたが本当に貧乏こきました。」
と、しみじみとして語られました。このように零細な種屋は真に悲惨な運命を遂げねばなりませんでした。

読売新聞記事
大正時代の全盛期の種屋