杣と日用


そま


木曽山の林業小史

 平安時代及びそれ以前には、都のまわりの山で相当伐採されていましたが、供給に応ずることが出来たため、木曽及び坂下のまわりでは領内だけの需要でした。
 鎌倉時代になると、建造物の用材として、木曽桧が伊勢神宮や円覚寺に用いられるようになりました。
 室町時代になると、銀閣寺、南禅寺などに使用されましたが、それ以外は未開のままでありました。
 天正十年(一五八二)織田信長が伊勢神宮の建て替えに木曽桧を用いたことから、都を中心に各地から求められるようになったと伝えられております。
 天正十八年(一五九〇)に、豊臣秀吉が国内統一をすると、いち早く木曽義昌を関東に追放して、自ら蔵入地として押え込み、犬山城主石河備前守光吉を木曽代官として派遣し、木曽、飛騨を支配させ、京都の聚楽第(じゅらくだい)、伏見城の建築用材を木曽川に流し、八百津の錦織で編筏した木材を長良川畔の墨俣で陸揚げして、人海作戦によって琵琶湖経由京の都へ運送しました。
 慶長五年(一六〇〇)に徳川家康が天下をとると、すぐに木曽山を収め、木曽義昌の旧臣山村道祐を木曽代官として大建築時代に備えました。
 慶長十一年(一六〇六)に名古屋城の造営をする頃から掠奪的な濫伐が強行され、無尽蔵を誇った木曽山も荒廃するばかりで、運搬に便利な山は殆んど伐り尽されてしまいました。
 元和元年(一六一五)に徳川領から尾張領となり伐採制限が厳しくなりました。
 寛文五年(一六六五)に第一次林政改革を断行して直属の林木奉行を配置し、川並番所を増設したり、木曽五木の名で知られた停止木(伐ってはいけない木)を設けました。
 享保九年(一七二四)に「木一本、首一つ」とまで言われた大がかりな第二次林政改革がなされ、幕末まで身分制度と共に続きました。
 世は明治となり、近代社会となりましたが御料林という名のもとに、杣には身分制度が残り終戦まで続きました。
 戦後、封建的な制度が廃止され、かつては懐しく親しまれた杣、日用、旦那等の名もすっかり消えてしまいました。
 慶長十五年(一六一〇)に奥地からの材木搬出の不能を可能にした技術「木曽式伐木運材法」→山落し、小谷狩、大川狩等の方法、つまり生産にたずさわった人々の苦心と努力によって工夫され、木曽は生き、伐木流しも生きのびました。
 しかし、明治四十四年(一九一一)中央線が山深い木曽も通るようになり、又、大正十年には水力発電のダムが建設されるに至ると、実に、三百年も生きた木曽のナカノリサンも終わりを遂げてしまいました。
 昭和四十九年には、最後の森林鉄道、王瀧鉄道も廃止され、総ては林道によってのトラック輸送に切り変わりました。


戦前の杣の制度

総頭(そうとう)→総頭格→旦那
    →庄屋→小庄屋→杣・日用

@総頭
 大旦那といって事業所の主任から伐採計画の依頼を受けて、それぞれの旦那に山の伐採区とか、石単価等を割当て、伐採が円滑にいくようにし、代人を通じて伐木造材事業の指揮監督や命令の伝達、造材検知の実行、日々の事業成積の報告や翌日の事業実行上の打ち合せ等の総括役でした。各事業所に一人いるだけで、事業所の職員と共に寝起きをして、杣から見れば偉い様で文句など直接言えるようなものではなく何もかも経験を積んだ持ち主が抜擢されました。
A総頭格
 大旦那を助け万が一の場合には総頭の仕事も担当する。普通代人は、山割の補助、総頭の命令を杣に伝える。直接杣の伐木造材の指導、日々の事業成績を総頭に報告して、翌日の打ち合わせ、造材検知の補助などの仕事をします。
B旦那
 総頭から割当られた伐採区を受けて庄屋に命令し、伐採の見廻り、検知を総頭に報告、下からの意見を総頭に代表として具申する役割をも持っており、権威のある持ち主です。
C庄屋
 人夫頭といって組長であり、山小屋での長で、六・七人の寝泊り、炊事、金銭面、人間関係等の世話役であり、チーム(小屋)の雰囲気は庄屋によって異にし、人間関係では特に庄屋の存在が大きいのです。
D小庄屋
 副組長といったものであり、毎日の個人の伐木石高、米、味噌、魚類、金銭等を記入整理する係でありますが、仕事は杣同様に働きます。
E杣
 普通杣夫といって木を伐って働く人のことをいい、小屋に寝泊りし上司の意見をよく聞いて伐採をする人をいいます。


杣の一年

 杣総頭から旦那へ伐採山の割当が終わり、入山は毎年四月一 日と決められておりました。(江戸時代は八十八夜の夜までに人山)口開け(仕事に着手する)の前に山の神を祭って入山の祝をしました。
 山の神の祭りは、山の木のうちで最も大きい木に注連(しめ)を張り、これに頭分の者三人で酒を供えて伐採する木に対して祈りをささげ、木の霊を戒め、作業の安全を祈って一同酒をのんで祈願しました。
 まだ雪の残っている深山の笹をわけ、庄屋を先頭に小道(こば道)を作りながら区分された場所へ進んでいきます。
 目的地へ来ると、最も条件のいい場所に小屋作りを始めます。谷水(清水の出ている所)に都合のよい場所を整地をし、桁行九間、梁間二間半(平均)の大きさの小屋で、柱になる丸太を切って打ち込み、丸太を渡してはりやけたにします。屋根は萱(かや)、藁(わら)、唐胡桃(さわぐるみ)皮等を重ねて、その上に細い丸木を上げ、石をのせて重みをつけ、風で吹いていかないようにします。まわりの囲いは、屋根と同じ材料で囲みます。
 小屋の中央に三尺の大きさの囲炉裏を通して作り、山手下手に一人分一枚の莚(こも)を敷きます。杣、日用同居する時は、
山手が杣、川手が日用の席になります。上手から庄屋、小庄屋、人夫、といったように座席が決められております。
これは座敷にもなり、作業場にもなり、宴会場にもなればまさに萬屋場(よろずやじょう)になります。
 寝る時は、囲炉裏を頭にして寝ます。壁を頭にする時は、不参枕といって怪我人や病人の外はしません。又、壁の方は個人の納戸といって、何時も布団その他の手廻品を置き、そこは他人は通れません。
 小屋作りが終わると、いよいよ仕事に取りかかります。ランプの生活の深山の夜明けは早く、朝飯をがぶりつくともう仕事に出掛けます。
 併せめんぱ弁当に飯を一杯詰めこみ、おかずは、ひじき、小魚、佃煮位を入れます。朝早く労働が激しいため、十時、十二時、三時と飯を立食い、一月米九合と味噌三十匁は杣に給付された分量でありました。
 夕日が西の山に落ちても、手を休めることがなく、あたりが薄暗くなると、ようやく仕事を終え、道具を片付けにかかり、引揚げる頃には、すっかり暗くなって松明(たいまつ)を焚いて小屋へ帰って来たと、付知町に住む戸田徳十郎翁は語られました。
 木を伐り倒していくには、庄屋、小庄屋を含めた人数分に二、三人分を加えて、総面積を一人分で割った分を順番に一人々が分担して伐っていきます。賃金は伐った石数によって決定されるため、立木状態、場所等の条件を平等に決めることは実に難しいことでした。早く一人分を伐った者は、残されている二、三人分(与えられていないところ)の場所へ入って伐り、順番に早く伐った者から残された分を伐っていくことになっており、口では表現出来ない競争の火花が飛び散るわけです。杣一日の伐り高は、場所、立木、種類によって異なりますが、平均二十石伐ったと付知町の坪井藤五郎翁の話でした。

元小屋(会所小屋)間取図


杣の七つ道具

@背負籠(しょひこ・ねこともいう)桧皮で造る
A山刀付き山刀手籠(なたてんこ・桧皮造り)
B斧(きり斧・ふしうち斧)顔のひげが剃れる位に研いでおかないと仕事になりません。杣の命といってもいいでしょう。
C墨壷(綱でっち付)
D差し(山曲尺、間竿ともいう)
E刃広斧(はびろよき・木造り用具、目方八百目、刃渡り八寸位まで刃沓付)
Fほ打(ほいち・小細工用具)山刀によく似ている


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木の伐り方

 普通三つ切りが多く用いられておりますが、極めて大きい木は安堵切り(あんどんぎり)といって四っ切りがありました。
 三っ切りは、倒す方向を決定して根元を三つに按分(あんぶん)して、斧で幹の部分の根元のでっぱっている部分をほっついて根元を小さくして受け口といって倒す方向を斧で幹の中心に向って堀っていき、今度は追い口といって丸い穴を中心に向って二方から堀り、受け口と反対側から切りこみを入れていき、倒す方向へ向うようにつるの部分を切り、最後に楔(くさび)を打ち込んで鋸で切り、つるを斧で切り放していき、大きい声で、例えば、
 「左横向!ねるぞ!」
と叫ぶと、ぐうぐう、ぎいーと不気味な音を出して揺れながら倒れていき大地に響き渡ります。
 倒した木は、枝打ち斧で枝を払い、十五尺の長さに間竿で印をつけ、斧で印を中心に両方五寸ずつ一尺位幹の中心へ向って堀っていき、鋸で少し切ると切断されます。
 更に切断された木は、皮むき鎌で皮をむき、木材一本一本に、符号で場所、種類、長さ、巾、杣名、検知名を山刀で刻印します。
 欅(けやき)の伐り方は、独特な方法が用いられ、三つ切りまでは同じでありますが、追い口を大きく深く斧であけ、その穴をもやや小枝などを焼いて中心が黒く焦げるまで燃やして伐り倒します。そうしないと木に割れ目が入ってしまい、欅を倒すには熟練と技術が必要です。
 四月入山して伐り始め、暑い夏が過ぎ、晩秋が近づく頃まで杣の労働が続けられます。

木の倒れる方向
材木の彫刻



楽しい休暇

 毎月一回仕事を休みお祭りをしました。山の神の祭りの前夜は「お日待(ひまち)」といって、それぞれの小屋では木の霊様を慰め、災害のないように祈願して通夜をするのが普通でした。
 山の神の祭りは、山人の休養の日で、労働の再生産をはかり、信仰を通して反省と自戒をして、精神の統一と共同生活の協調に役立つのでした。
 入山祝いの時は、一人当り酒二合、毎月の山の神の祭りには酒一合が給与され、奥山で何の楽しみもない山人は、この日をどんなにか楽しみに待っておりました。
 雨降りや夜作(やさ)にかけて、草鞋作り、箸けずり、蓑(みの)作り、道具の手入れなどが待ち構えています。
 蓑作りは、菅(すげ)を干して選別し、一升析一杯あれば蓑の一枚分あり、夜作ばかりで七夜でしかもローソクの燈をつけつけ立派なものが出来るという話も聞かされました。


▲土入れ 貸金も定まり年一度限りの休日(旧天長節の日)



山の味

 飯場での祝いは、一日にはお日待といって山の神の祭りに五平餅をよく作って食ったり、十五日にはお月待といって酒に親しみました。
 山での産物は、何といっても山うど、山ぶうき、たらの芽がおいしく弁当に人れたりして季節を賞味しました。それから、へい竹(熊笹)の子の夏の味、秋の茸類では天然の椎茸がよく取れ、よく肥え大きいものを焼いて生姜溜で食えば、飯が何杯も入り、一升飯を遥かに越したとか。その他、カワムケ、モタセ等生えている場所へ行けば、法被(はっぴ)に一杯になってしまい、茸飯なんぞよく食ったとか。


服装

 紺の股引きをはいて、木綿のシャツを着て旦那名入りの法被姿でこうかけ(紐付き)に草鞋を履き、手拭いを首につけ、菅の笠をかぶり、腰には羚羊(かもしか)の毛皮を付けました。このような格好は昭和の初期まで続き、地下足袋が出現してズボンになり変わりましたが、法被は終戦まで身分制度と共に残りました。


戦後の杣

 いち早く身分制度が改革され、山は御料林(宮内省)から国有林(農林省)になり、しばらく出来高によって賃金が異っておりましたが、ようやく月給制になり就業時間も八時間労働になりました。
 杣と呼んでいたのは造材手となり、機械化されて斧のかわりにチェンソー(自動鋸)が唸り、またたくまに大木が切り倒されてしまいます。
 日用といっていた川狩りは、運材手と呼び奥地まで作られた林道にはトラックが待っており、谷間に張られたロープに材木が吊られ、集材機によって運ばれ、見ている間に積み込まれてしまいます。かつての川狩りで二、三割損失のあった木材は、今では殆んど傷つくことなく運ばれていきます。
 しかし、山はどこも荒廃しており、豪雨によって災害が起き、自然は変わりつつあります。私達は祖先の培って育てた山を破壊しないように守り続けていきたいものです。