杣と日用


ひ よう
日用

 日用とは、今では賃働きに行く人の事を指しますが、昔は材木を山から出して川流しをする人夫を日用と言っておりました。
 木曽川の伐木流しは非常に古くから行われておりましたが、江戸の中期から飛騨川水系と共に盛んに行われるようになりました。
 圧制の政策の中でも、生きるがために粗食に耐えて、木曽や飛騨の人々は、無口ながらこの仕事を頼りに生き抜いてきたのです。こうして明治、大正と生き続けてきたものの、中央線の開通と発電用のダムの建設によってその生命は絶えてしまいました。

木曽式伐木運材法


野良桟手▲
 木曽式伐木運材法とは、木曽に住む木曽の人達が労働の中から編み出したと言われるすばらしい方法で、大別して@山落しA小谷狩りB大川狩りの三つに分類することができます。
 八十八夜前後に伐木が始まり、杣が入山する。それと合わせたように常用日用が入山し仕事に取りかかります。八月一杯位に伐木が終わると杣で日用になる人も随分おりました。
 @山落しは、木の葉水とか言って谷川の水量が少なくなる九月中旬から始めて、十月までにあらかた山落しを終了します。
 山落しは、木材自体の重みを利用して、滑べるようにした運材法で小谷まで運ぶのです。傾斜血に丸太を並べるのを『ころ出し』といい、ころの両側に縦木をつけたものを『算盤出し』とも言いました。
 貴重な材木を運ぶ場合は、岩壁などから、麻縄でつっておろす釣木という方法も取り入れられました。
 沢筋から谷沿いに搬出するには修羅(すら)というのが用いられ、数本の丸太を半月型に溝状に並べ、両側に防材をつけた設備は、山落しの王様でありました。
 桟手には、丹波、もっこ、野良の種類があり、それぞれの地形に合わせて用いられました。

野良桟手などの図(1)
野良桟手などの図(2)

 A小谷狩りといって小さな谷川や付知川、川上川、田立川、王滝川等つまり木曽川の支流を流すのは、十一月から十二月にかけて行われます。一年を通して水の少ない時期が選ばれるわけです。
 谷川の水を利用して堰を作り、桟手(さで)、修羅(すら)などで狩り出してきますが鉄砲出しが最も多く用いられました。
 小谷狩りには、木鼻役人(川の先頭を指揮していく人)が、設計をして堰にするとか修羅にするとか決めて行き、一庄屋三十人位の編成で何百人という人夫が出て運材したと付知町の坪井藤五郎翁の話でした。最後は木尻(きじり)役人(後片付けをしていく人)がいて、残木を流し堰も取りはずして行く仕組みになっておりました。
 宿は今の民宿みたいなものがあり、御飯の炊き出しから芸者の接待客引きがあり、実に花々しい光景を呈しました。
飲み過ぎこいて翌日ふらふらで働いたこともあったとか。
 小谷狩りをしてきて木曽川に達すると、そこで『かんばん』(杣夫の符丁を刻んだもの)を確認をしました。付知川では毎年三〜五万石運材したと話されました。
 B大川狩りとは木曽川を八百津の錦織の綱場(つなば)まで二十余里流していくわけです。十二月の中頃から始まって、翌年の立春頃には木尻(最後の尾の木)が錦織の綱場に到着しますが、山落しからはじめてその間およそ二百日を要します。
 小谷狩りの一庄屋で二、三人の達人が選抜されて流していくわけです。
 大川狩りは管流しといって一本ずつ流すもの、十二、三本筏にして流す小筏、六、七寸角で長さ三間ものを五、六本藤づるで編み、鴨のように水をくぐって流す鴨筏などがありました。
 綱場で留められた木材は、二間材を二継ぎとして、巾十尺の筏に編成し、ここから桑名や名古屋の白鳥(約百キロ下流)へ筏送りをしました。

簗の図
修羅の図
桟手の図
小谷狩鳥瞰図
小桴・下麻生湊留綱
尾州潘藩木曽御材木大川狩要図


修羅▲




戦前の日用の制度と坂下の様子

総頭→総頭格→旦那→庄屋→小庄屋→常用日用・臨時日用

 日用も杣とまったく同じ制度で、常用日用が三十人が基準で一組を作っており、小谷狩りの忙しい時期になると、杣とか農家の男衆を臨時に多勢雇ったものでした。
 大雨が降ったり、水かさが増して来た時などは、必死になって材木が傷つかないように努力をしたり、一晩中寝ずに材木を守ったものです。
 坂下の様子について、原吉六翁(新田)は自分の目で見たことについて聞かせてくださいました。
 「材木が木曽川を流れて坂下へ来る頃は、真冬の寒い一月下旬で、多勢の人が分宿して泊り、服装はハッピ姿にカルサンをはき、紺の脚絆に草鞋をはいて腰皮(羚羊などの毛皮)を下げ、鳶を持って、材木の上をまるで軽業師のように飛び廻って仕事をしておられたのう。ハッピの紋は庄屋は小さく、平ペーは梢大きかったように覚えているがあ。  かけ声高く、北風と粉雪の舞う川の中を材木をどんどん流していかしたのう。それから一定の期間が過ぎると、木尻役人が舟で流材を一本も残らず流していったようやったが。」


歌が友で

 もう一ッ余談やが、木曽の中乗りさんで知られる有名な木曽節は、筏流しの船頭さんの事で、下流へ下流へと渡っていく中乗りさんに、舟宿や料理屋の女衆が恋や哀われをいだき、♪足袋をそえて上げましょうか。♪袷(あわせ)を縫って差上げましょうか等々歌ったのが始まりだとか聞くがのう。俺もそう思うが。」
と、正座のままで語ってくださいました。
 又、付知町の戸田徳十郎翁は木曳(きやり)音頭の一節を新築したばかりのお座敷で、美声を上げて歌われました。真に川から山へ響いていくような声でした。(今では保存会を作り県無形文化財の指定を受け護山神社祭典に歌われます。神木奉納の時や川狩りに江戸時代から歌われておりました。)
 参考までに一節をかかげてみると、

♪ヤルワーイ(ヨイヨイ)
 かおるしゃくなげ裏木曽の(ヨイヨイ)
 井出の小路の名木が(ヨイヨイ)
 御神木様にみたてられ(ヨイヨイ)
 お伊勢様の神宮か(ヨイヨイ)
 お払いなして伐採し(ヨイヨイ)
 木曳音頭で送りました(ヨイヨイ)


草鞋(わらじ)

 草鞋は構造上から大別すると、五種類に分けられますが、その地域の人達が仕事の中から編み出したすばらしいものです。

種類 概略 用途
有乳草鞋 乳又は耳のあるもの
四乳草鞋
里草鞋(乳一対)
六乳草鞋
八乳草鞋
きりお草鞋
なべつる草鞋
…普通一般用
…道中用
…戦場における武士
…行者、山伏
…四乳を切りおにしたもので杣、日用
…雪山用
無乳草鞋 乳を作らず緒をそこへ作りこみにしたもの
ごんぞう草鞋
つるかけ草鞋
…杣、日用
…杣、日用、狩猟
ねじ草鞋 はなもみわらじともいって先を保護するようにしたもの はなもみ草鞋
つまご草鞋
ねじ草鞋
かさ草鞋
草履草鞋 草履によく似た作り方の草鞋 草履草鞋・女子草鞋…山仕事には殆んど使われず、百姓の田の水みに行く時などに用いた
馬草鞋 馬沓草鞋 馬靴…馬にはかせた草鞋


木曽周辺地図



参考文献と話を開いた人
木曽の杣うた
帝室林野局五十年史
木曽をめぐる歴史
木曽式伐木運材図絵
信州の木材業百年
付知川に於ける材木伐出の沿革と絵解
今枝 文吉(矢渕)
坪井藤五郎(付知町)
合戸 憲一(島平二)
原 吉六(新田)
戸田徳十郎(付知町)
糸魚川亮助(東町)
坂下営林署のみなさん
西尾 かる(東町)