きんま
木馬


 木馬とは、木の橇(そり)に材木や薪を積んで山道にはんき(横木)を敷いた上を滑らせて人力で運ぶものです。


坂下での木馬

 江戸時代から明治にかけては、山で伐った木を山落しといって谷へ落とし、それから川の水を利用して木材を運搬していましたが、中央線が開通し、川にはダムが出来ると木材の運搬法が大きく変わり、駅へ出す方法になりました。
 従って木馬あるいは『どた引き』(馬や牛に引かせる)で道まで運搬し、道路からは馬車によって駅まで運ぶという方法になりました。
 木馬の本場は土佐や紀州だと言われており、そこから木曽路や飛騨路へ伝わってきました。
 坂下はどた引きか盛んで、木馬の入ったのは安江芳太郎翁(上外)の話によると、満州開拓にいく頃、つまり昭和十五・六年からぽつぽつ始まって比較的遅く入り、昭和二十年に高峰材を運ぶために小畑栄六氏(上外)を中心にして外洞の若者達の手によって盛んに行なわれるようになりました。
 時は過ぎ、林道が盛んに拡張され、架線(集材機)が導入されるようになり、木馬の役目も用をたさないようになり終わりを遂げてしまいました。


作り方

 用材には、二種類あって、樫の木ばかりで作ったのを総台といい、下駄の部分だけを樫の木を用いたものを接ぎ馬(はぎうま)といいます。
 総台ばかりの方が丈夫で運びやすいが、重いのと費用が多くかかります。
 高さ約七寸、長さ約八尺で木と木の間が前が約一・一尺、後ろが約一・三尺、ぬきを前二本後ろ二本入れて丈夫にします。下の部分を上の部分より広くして橇の安定をはかり、鼻二つ目と、尻二つ目のぬきに『ご台』(荷物をたくさん積むための棒)を二・五尺から三・七尺の物を針金で取りつけます。
 道路の条件により積み荷が異なりますが、材木だと七〜十石位、なんと馬車の二倍位を一度に運ぶことが出来るのです。

木馬の作り方(図説)


道作り

 先ず初めに、道路から現場までの下見をして、土場(材木置場)から目測によって見当をつけて目印をして進めていきます。
 なるべくカーブをゆるやかにとり、急な角度をとらないように目測で目印をしていきますか、これには勘と熟練が必要です。そして一間上るごとに最大五〜六寸の公配で測量していきます。
 測量が終わると、いよいよ道作りになります。巾五〜六尺の道を作っていきます。道には盤木といって横棒を一尺おき位に敷いていき、平らな所は潅木の盤木を敷き、急な所は青木(さわら)を敷きます。
 谷があると面倒で、桟橋をかけて、その上に盤木を敷き、縦に長い棒で木馬がずれて落ちないように『かで』を打ちつけます。

木馬道の作り方(図説)


木馬曳き(きんまひき)

 木馬に材木を前三分後七分になるようにうまく重荷を考えて(引き安くするため)かすがいで打って荷がぐれないようにして、グループを作って引いていきます。危険な時は助け合うようになっているわけです。
 木馬に材木を結んで一本飛び出させてそれを梶棒(かじぼう)にします。肩紐で腰が折れる位曳くとギィキィときしんで進みますが、進みの悪い時には木馬につけておいた油壷(菜種油)から筆(むくぞを棒でしぼった物)を出して木馬道の盤木につけてくねらして曳くと、木馬は進んでいく格好になります。
 反対に急な所でさす場合は、ワイヤーを木の株に取りつけて、それを木馬の梶棒に二、三回巻きつけて手でゆるめながら進んでいきます。この時肩紐を肩からはずして木馬に危険があった場合は、何時でもはなせる状態にしておくわけです。ワイヤーのないさす時は砂をまいて進みます。
 木馬曳きは絶えず危険が共なうので緊張の連続です。田瀬の原一一翁は、
 「俺りゃあ木馬を曳いたのは昭和七年で二十四歳の時やったが、普通の人夫で 一日五十銭位の時、五〜七円の荒稼ぎをしたものやったのう。
 三十年ばかり木馬曳きをやったが、えらいことと緊張の連続やったぜ。一日終わった時は、ほっとして酒一升一円ニ十銭やったが、きれいに飲みほしてしまったもんやったぜ。」話はまだまだ続いたが、白髪頭をなぜながら語られました。
 又、付知町の戸田徳十郎翁は.
 「俺りゃあ二十歳の時に始めて木馬を曳きに信州の伊那の山奥へ行ったぜん。大正七年から二年程曳いたが、始め二、三ヶ月はおそごうて三、四本位(約五石)しかよう曳かなかったが、だんだん慣れて終いには八本位(約一二石)曳いたぜん。(超ベテランは十本位〔約一五石〕曳いた)
 何しろ、二里(約八キロ)の山奥の長丁場で、二寸三寸の勾配は楽に曳けるが、五寸六寸の勾配になると、物凄く差してワイヤーのない時代で、ロープで差すのを止めながらおりてくるそりゃあ命がけの仕事やったぜん。お陰で一度も失敗したことはなかったがとても危険な仕事で若さでやれたと思っている。
 朝、暗いうちに積荷をして『積み土場』を出発するともう昼少し過ぎに『おろし土場』へ着く。夕暮れまで待っていると、湿気を帯びて盤木の滑りがよくなるので、木馬を曳いて『積み上場』へ到着すると一日が終わる仕組みになっていた。雨の日や霜の降る日は木馬が滑っておそごうて仕事はとても出来なかったし、十月の終わりになるともう雪が降って山からおりてきてしまったぜん。
 賃金計算は簡単で、一本一円で八本曳いて八円の荒稼ぎが出来た。お盆に家へ帰る予定で飛騨の人達と一緒に伊那の町までおりてくると、方々の山から杣、日用もおりてどの旅館も活気を呈していた。丁度その時、米騒動の年で役場や集会所に町の衆が集まっており、騒動を起こす寸前であったが日用、杣、木馬曳き等の山の仕事衆が料理屋、旅館で飲んで景気を上げる勢いに煽られて中止してしまったという事やった。
 俺もあの時、三百七十円稼いで来たが、芸者あげてすっからかんになってしまったぜん。飛騨の衆も家へ帰れんようになってしまった。ハハハー、今から考えてみるといい思い出やった。」
 側にいた婆さんは、爺きんに自家製のあたたかいお茶を差し出し、今の幸せを噛しめなから昔の苦労を語ってくださいました。


木馬曳き▲



参考文献と話を開いた人
林業労働図説
安江芳太郎(上外)
山内誉次郎(小野沢)
原 一一(福岡町田瀬)
大蔵 章(南木曽町漆畑)
戸田徳十郎(付知町)