首なし地蔵(握)

▲首なし地蔵

 握の陸橋から折れて、吉村正美さんの前の竹薮の隅に、首なし地蔵が建立されております。
 もともと、この地蔵様は、現在の場所より五十メートルほど離れた水車屋敷にあったのです。この場所にあったのは、木曽川を渡し舟(今のつり橋附近)で来て、登りつめる辻に祀られていたのです。それは、村の衆や旅人が安心して渡れるように祀りこまれたのでしょう。
 この地蔵様は、安永三年(一七七四)甲午年三月に握平中の人達の手で建立されたものです。
 首なし地蔵といういわれは、きっと廃仏毀釈で打ち崩されて、明治以降放置されているうちに、土地の人たちによって、何時しか知らぬうちに名付けられたものだと思います。
 その後、首のない地蔵様に、何んとか首をつけてやりたいと考えられ、近くの吉村正美さんが、昭和四十四年に苦心に苦心を重ねて石を刻んでつけられたのです。
 首なし地蔵には、こんな伝えばなしがあります。

 お地蔵様が建立された頃は、まわりは竹薮に囲まれ蛇がよく出て、首と腹を脹らませ、竹薮の中をころげ廻っておりました。そんな事から、土地の人達は、やかんころがしなどと言って恐れておりました。
 そんな事をも気にしないお地蔵様は、清らかな流れの木曽川の対岸から山口村を見下し、旅行く人や通りの人達を辻でお守りしておられました。
 握に、それはそれは大変親孝行の息子がおりました。母と二人きりでしたが、苦しいながらも楽しい暮らしをしておりました。
 小さな百姓であったため暮らしの足しに、母は機織りの仕事をし、息子は朝早くから田畑の耕作に精を出し、夕方は木曽川で魚を取っては町まで売りに行っておりました。  そんな幸せな暮らしが続いていたのに、或る時、突然、母は疲れで倒れてしまいました。近所の人達も駆けつけて来ました。大騒動です。
 「医者様を呼ぱなあかん。」
 「あのー、加藤のお医者様よ。横吹きの医者よ。」
 急いで馬を仕立て、加藤の医者を頼んでみてもらいました。
 診断の結果を、みなの衆は息を殺して待っていました。
 「これはなあ。大変疲れて衰弱しておる。不治の病になりかねない。気を落さないように看病するんだなあ。」
そう言って、馬に乗ってお帰りになりました。
 二人で働いてもやっとこの生活はとても苦しく、それに働いて帰っても笑顔で迎えてくれるものがなくなってしまいました。
 そんな息子には、毎日川へ魚を取りに行く辻に立つ気品の良いお地蔵様が、何時も笑みを浮かべ何かを語りかけてくれるように思われました。そこで、このお地蔵様にお願いをしました。
 「どうか、母の病気を治してもらえんやろうか。よろしくお願いします。」
 毎日毎日お地蔵様に手を合わせてお願いしました。
 息子は魚を売って、そのお金で薬を買って母に飲ませました。近所の人達も、
 「若いのに本当によく世話するのぅ。」などと賞めておりました。
 息子は、母の床の横に枕を並べて寝ながらも、心の中でお地蔵様に祈願をこめる事を忘れませんでした。
 それにしても、母の病いはよくならず、たびたび苦しそうにうわ言を言うようになりました。それを聞くたびに息子は、いっそうお地蔵様に心の底から祈願し手を合わせました。
 それから数日後、お地蔵様に魚を供え、家路に着こうとしていると、
 「お−い。大変な事になったぞ。おっかあは死んでしまった……。」
 息子は、その言葉を耳にすると、いきなり狂ったかのように、地蔵様を担ぐと、木曽川へ向かい、養老岩めかけて投げこんでしまいました。地蔵様への祈願もむなしく、息子は岸べで涙をはらはらと流し、茫然と立ちつくしてしまいました。



参考文献と話を開いた人
みかえりの松……坂中文芸部
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