じ とう しん
地頭神(新田)



地頭神と刻まれた石碑▲
 和合町民運動場のはずれに、石碑が木曽川へ向いて建てられております。
 この石碑の表には、地頭神と刻まれており裏には文化三年(一八〇六)丙寅六月吉日。施主、村中と刻まれ、願主は万兵衛、善蔵、四良八となっております。
 地頭神のことを、土地の人は水神様とも呼んでいます。
 大昔、木曽川は賎母の橋附近の曲りから、和合を通り、新田から相沢へと流れていたと言われております。その木曽川の流れを変えようとした小領主(地頭)がいたのではないかという話です。それは、関西電力骨材採集現場になった場所(和合川原、川中島)から粘土質まがいの堰堤らしきものが出てきたからです。きっと堰堤を築いて木曽川の流れをかえ、水害を防ぎ土地をふやして村人の幸せを守り通したことから、文化三年に、この功績をねぎらい石碑を建立したのではなかろうか。
 その時の代表者である万兵衛、善蔵、四良八の三人が、苗木藩へ願い出て建立の許可を得たものであろうと思います。施主、村中と刻まれるのは、村の人たち、とくに新田、中之垣戸、東町の一部の者か中心になって建立したものにちがいないでしょう。
 現在、祭りは幟りを二本ほど建て、四月二十六日に営まれております。昔は重箱携帯でしたが地頭神移転以来、無一文で酒は飲み放題、肴も食べ放題、でも人の集りが少いのが残念だということです。
 そのわけは、昭和三十一年に関西電力山口発電所田立ダム工事の骨材採集所の場所になり、地元と関電との間に、再三にわたり移転についての交渉がなされました。当時十五人の講であったか、この時とばかり相沢部落も加わってもらい、一大交渉か行われました。四百万円と敷地一反歩の大要求を出したのですが、こちらにも弱みがあったのです。それは、河川敷地の所有権はないのです。でも昔から、地元が崇拝してきた地頭神。崇りがあってはと心配し、遂に双方歩み寄りしたのです。敷地一反歩と相当な額(秘密)が関電よりおりました。
 毎年営まれる祭りの費用は、利子で運用されております。
 地頭神碑のまわりにちょっとした話があります。

 この一帯を、和合川原と呼んで石がごろごろしておりました。ところどころに畑が顔を出し、川原の中ほどに島のようになっている中州かありました。何時しか知らぬうちに、土地の者は川中島と呼ぶようになりました。
 そこは、七〇アール位の場所で、大きい松が三本と小さい松が五百本以上もたち並び、その小高い場所に地頭神が建立されていました。
 丁度、四月の祭りの頃には、ねこやなぎや川原南天が赤い実をつけ、それにおしやがまが可愛い花を咲かせ、あたりは春の陽が、ぽかぽかと照りつけ、賎母の公園の桜の花びらがそよ風にひらひらと舞い、木曽川の水はより美しく流れ、中州に筵(むしろ)を敷いて酒をくみかわす味は実によく、酔がまわる。まわるにつれて歌や話が一段と高まり、
 「あの頃は、実によかったなあ。」
と、もう一度舌をまわして古老が語られました。
 幸い、町民運動場が建設され、町民の憩いの場となって発展していることを地頭神は見守ってくださると思います。




参考文献と話を開いた人
坂下町史
加藤与志ゑ(中之外戸)
糸魚川亮助(東町)
原 占六(新田)
原 新助(相沢)