りょう とく じ
粮徳寺(大門)


 大門の上に稲荷堂と言う地名があるが、そこに坂川鉄道軌道跡が道として残っています。そのすぐ下に上井用水が流れ、近くに、吉村金重氏の家があり、そのまわりに、寺屋敷とか、庫裡(くり)とか寺に関係した地名が今も伝わっていることから、そこに粮徳寺という寺があったのではないかと言われております。
 庫裡とは、寺の台所や、住職や家族の居間にした所で、大昔にしては、随分格式の高い寺であったように思われます。
 このお寺は、あまりにも古く、語り伝えられているものは殆んどありません。
 近くに坂下の原家の元祖と言われる原漸氏宅があり、先祖代々の系図が残されています。その系図に次のような一節がありました。
 『木曽一族ニ、三尾将監長次基ハ、家康公奉公申知行千石ヲ領ス。一類二辛原居住ス、将監長子三尾左京千村平石衛門居住ス。二男原弥五良ハ、美濃国恵那郡苗木藩坂下村合江粮徳寺住僧ニ緑有リテ被地ニ任シ、農家下リ、ホケヤマニ住居ス』
 この一節からも随分古いものであったと思われます。
 時が経て、廃寺となり、後から近くに建立されたのが養徳祀であったのです。
 この神様の祀と、昔、とても賑やかに栄えた稲荷堂も、坂川鉄道軌道内用地になり移転をさせられました。当時の金で、百円の移転料であったと言うことです。
 養徳神は、丸山にいったん移されておりましたが、再び場所を変えて、今は吉村金重氏の前に祀られております。
 養徳神の祠の中には、
   ○華再祭養徳神
   ○明治三十一年旧暦八月祭
   ○大祭礼日旧六月二十一日
   ○養徳寺先祖木曽義仲之末子異也
と記されております。
 寺屋敷からは、壷が出土されたし、近くの民家には槍とかすばらしい刀などがあったそうです。
 これらを参考にしながら、地元の人々の話をまとめてみると、次のような伝えばなしになるようです。
 木曽の武将、義仲公は、京都へ出陣する折に、山口村から木曽川対岸の坂下神社に向い、紙に勝運を書いて矢を放って祈願をこめたといわれる事からも、美濃の坂下には、随分愛着を持っておられました。
 そこで、自分の身内である末子に、いくらかの財産を与え、坂下に住まわせると同時に寺を建てさせたのです。
 そもそも末子は、不治の病にかかっていたので、木曽を離れた坂下で、静かにこの世を送らせようとの思いやりがあったのかも知れません。
 この頃の坂下は、桧や杉等の大木が生い茂り、川上川は、細くて小さく清らかに流れていたのです。そして、農家が点在する大自然の中で、ひよわな末子は養生に、これ務めたのです。
 時は流れ、末子はこの世から消えてしまいましたが、住職は次々と木曽からきて丁重に、義仲公の末子をお守りし続けておりました。たまたま、原弥五良は住職を頼って、坂下村で農業を営むことを決意してきたのです。
 しかし、この寺も、何時しか知らぬうちに廃寺になってしまいました。
 昔を偲ぶこの近くの農民は、僅かばかりの金を出しあって、廃寺の近くに養徳神を祀り義仲公の末子を何時までもお守りすると共に、自分たちの心のやすらぎにこれ務め今日に至っているのです。




参考文献と話を開いた人
原家系図
原 漸(大門)
吉村 金重(大門)
吉村 道次郎(大門)