鹿の湯(小野沢)



鹿の湯の泉源▲
 上野の小野沢のバス停から、飛騨街道へ三百メートルほど入った所に、通称、真路(すぐじ)の湯屋があります。
 この場屋の本当の名は、当地の字名から、沓掛(くつかけ)の湯で、沓掛湯屋が正しい呼び方だそうです。
 湯元は、当湯屋から五百メートルほど坂を登った鹿峰山の麓の区有林の入江の鹿峰沢から湧き出ています。
 この泉源は、区有地であるため、毎年、区へ使用料を払い、湯元から湯が引いてあります。
 沓掛の湯の由来は大変古く、今よりおよそ二百年程前(苗木藩主遠山美濃守の頃)から福岡町の栗本の湯と共に治療の湯として、汲んで差し上げたと言われております。
 廃藩置県によって、区民の湯になり、明治の初期には、飛騨街道であるこの道筋に長谷川菊次郎氏が汲み湯をしながらくらしをたててみえました。
 明治の終わりに中央線が開通し、坂下に駅が出来ると俄かに飛騨街道が活気づき、往来の人か多くなり、大山ぎん、大山はる、林永大郎氏たち四、五軒が街道筋に軒を並べ、湯元より竹樋で湯を引いて、木賃宿を経営していたと言うことです。
 この間に、深谷定六氏も隠居仕事に湯屋を始め、明治十二年八月に、湯元に薬師如来碑を建立されました。
 時も経って、高山線が開通し、北恵那鉄道も開通すると、俄かに人通りが少なくなり、湯屋も何時しか知らぬうちに消えうせてしまいました。
 林永大郎氏は、廻りに小さいなからも田畑があったことから、山仕事をしながら汲み湯を続け、近くの年寄り衆が米、味噌持参の自炊泊りで湯入りを楽しんでいました。
 戦争という苦しい時代から開放され、再び沓掛の湯として今日復活したのです。
 昭和三十一年五月九日の分析によると、ラジウム鉱泉として、胃病、痔、神経痛、老衰現象.動脈硬化症等によくきくとされています。
 沓掛の湯にはこんな伝えばなしがあります。


 昔は、鹿峰山一帯は木々がおい茂り、小さな山道があるのみで、それはさびしい所でした。
 この鹿峰山は、尾張藩川上村の夕森山の続きで、羚羊(かもしか)がたくさんおり、苗木の殿様のしか狩りの場所であったのです。
 ある秋のこと、殿様は家来を連れて、ここへ羚羊狩りにおみえになりました。開始の合図により、あちらこちらの峯や谷から家来達は追いたてます。たくさんいると言っても、相手はすばしこい羚羊です。弓を引いて矢を放ってもなかなかあたりません。お疲れになった殿様は、大きな樅の木の下に休まれました。家来の者供は、馬のくつを取り替えて、いたんだくつを樅の枝に掛けました。
 しばらく休んでおられると、家来の者があわてて来て、
 「殿様、あそこに一頭しかがおります。」
 そう言って指さしました。隠れるように近づいて見ると、確かにおりました。殿様は矢を放とうとしましたが、しかの不思議な動作に気がつきました。そして、矢を放つことを忘れてじっと見ていると、しかは足から血を流し、湯壷へつかって治療しているではありませんか。
 しばらくして、しかは足がよくなったのか奥山へとび去っていきました。あわてて湯壷へかけ寄ってみると、そこに鉱泉か湧き出ていたのです。殿様は、
 「これは、動物が危険をおかしてまで本能的にこんなことをしたのだから、この湯は病いにきっとよくきくにちがいない。汲んで帰れ。」
そう言って、引き上げられました。
 それ以来、苗木の殿様は、鹿の湯として家来の者供に湯を汲みにこさせ、好んで風呂に入られたそうです。
 また家来の者は湯を汲みにきては、あの大きな樅の木の枝に、馬のくつや草履を掛けていくうちに“沓掛け”と言う地名になったと言うことです。



参考文献と話を開いた人
鷹の湯……坂中文芸部
山内 総爾(小野沢)
山内 誉次郎(小野沢)
林 保(小野沢)
深谷 つた(小野沢)