や ぶち
矢渕の戦(矢渕)


 今は、矢渕もバイパスが出来て姿を大きく変えました。古戦場矢渕の戦は矢渕橋附近が中心で、バイパスの橋のかかっている通称弁天が「旗巻き渕」と言っているところです。
 それから、一般にはあまり知られていないが、鏡岩という長さ六メートル余、巾一・五メートルほどの巨大な岩石があり、その中程に、角が二つと丸が一つ堀り込まれ、その中に鏡をはめ込んで戦をやったのではないかと言われています。その岩は、吉村酒屋の裏山の雑木をわけて登っていく中腹にあり、そこからは、樋ケ沢団地も見えれば木曽川一帯も見え、よく展望のきく地点であります。
 矢渕の戦については、町史にくわしく述べられているように、昔は系図書きを商売にして謝礼を受けながら各地を廻り歩く人がいて、戦に関係のありそうな場所があると話をしていったその事が今日受けつがれているようです。この話によく似たのが、中野方にも蛭川にも恵那にもあるようです。



▲旗巻き渕


 さて、今よりおよそ六百年前、後醍醐天皇は討幕に失敗され、立てこもっていた笠置城内(大和国)へ敵が乱入したので、僅かの供の者とともに合戦と猛火の山上をのがれ、足にまかせて山道を逃げ隠れしてさまよいました。
供の者といえば藤房、秀房ら若千の者にすぎなかったのです。ようやく山城の綴喜郡多賀村にたどりつきましたが、寝所もなく食もつき果て、疲労が極度に達し、髪は乱れ小袖一枚、帷子(かたびら・麻で織った夏の着物)一枚という姿で岩角に休んでいる所を捕えられてしまいました。


赤田の刀砥石▲
 いっぽう、笠置(大和国)の落人らは各地で捕えられました。妙法院尊澄親王(宗良親王)は子どもの尹良親王と共に、近江から木曽西古道を通り中野方に落ちてきました。ここには前に立てこもった同じ笠置がありなつかしく思われ、涙ながらに敵の退散の祈願をこめて詣いられました。そして心身共に疲れ果てた体を休められたのです。
 翌朝、しらじらとした頃、親王の所在を聞きつけた敵はなおも追ってくるではありませんか。身支度を整えた親王方は、蛭川から高山の関屋(現在の高山十三塚)へきて追いせまる敵と戦われました。数もすくなくなり、身の危険をあやぶまれ、尹良親王とも別れ供の者とひたすら東へ東へと落ちのびてこられたのです。
 長坂の熊久保の岩に腰を下し、かすかに聞こえる木曽川の音に耳をかたむけ、身のまわりを整えながら、残りすくない糧をほうばって休みました。傷を負い誰も彼も刀の刃はぼろぼろにいたみ、無残なありさまでした。ふと目にとまった岩を指さした宗良親王は、
 「よし、この岩で刀を低いでみよう。」
と言われ、供の者はそれぞれ岩で刀を砥ぎました。(これが刀砥石で、現在三つの石に十ヶ所砥ぎ後が残されています。)またもや敵のせめてくる気配がしてきました。供の者を引き連れた親王は、今度は最期の戦になるだろうと心の中で悟られ、小道から山へすこしばかり入ると巨大な岩石が目にとまりました。その時、ふと郷里を思い出し、妃の形見として持っていた大切な鏡を岩に奉納し、敵のようすを窺いました。その後誰かの手によって岩に鏡がはめ込まれ、それが鏡岩として伝えられています。
 急いで川上川を渡ろうとしていると、もう敵がせめてきました。これが最期とばかり敵も味方も必要になって戦い、激しく矢を射つくしあうとしまいには旗で矢を防ぎましたが、旗の紐(ひも)が射落とされ渕に落ち、水が激しく過巻く中に姿を消してしまいました。矢を討ち合ったのでここを矢渕と言い、旗が射落されたこの渕を旗巻渕と言うのです。防戦一方の親王方は、数人の供の者と川上の山中へ逃げ最期を遂げてしまいました。供の者である千葉は川上に、竹腰は上野に、糸魚川は高山、逸見は毛呂窪に隠れました。その後、高山の殿垣外の山に親王方を葬り、遺臣等は農耕をしながら開懇して法泉寺を建て、冥福を祈ったと伝えられています。


▲鏡岩



参考文献と話を開いた人
恵那郡史
坂下町史
原 吉六(新田)
田原 金一(高部)
吉村 一彦(矢渕)
原 功(矢渕)
原 新助(相沢)