たから べ ふる どの
財部古殿(高部)


@公田使として来た古殿

 高部平一帯は、昭和十四年から六万五千円の工費で用水改修と耕地整理が、部落民の熱意によって始められ、水路二千メートル余りと湿田およそ十二ヘクタールが、四年の歳月を費やして昭和十八年十一月に完成し、記念碑が建立されました。
 この美田も、今や工場になったり、住宅地になり変貌しつつありますが、整理される前まではきわめて悪い田で牛馬が入らず、手による耕作しか出来ない沼田でありました。
 でも、この湿田は古くから開発され、多くの歴史を秘めています。
 原始農業が営まれるようになり、いち早く出水を利用した農耕を始めたのは、坂下ではこの地が一番ではないかと言われております。
 それは、附近に古墳があり、耕地整理の時に土器が発堀されたことからも実証されております。
 大化の改新により公地公民制度が確立され、東国(関ヶ原以東)へ選ばれて公田使となり都よりこの地へきて百姓の主として居ずいたのが、田原金一氏の先祖(財部古殿)であります。
 大昔は、高部を財部といい、土地がよく穀物が豊かにとれたので財であり、早くから開けた所を部といいその中での親分を古殿と言いました。
 この頃の坂下では、出水を利用した原始農業を始めたばかりで、ほんのわずか(十五、六戸)の人々が暮らしていたにすぎなかったのです。
 公田使とは、年貢取りたての役や土地の管理をまかされ、百姓の親玉と言ってもよいものです。
 その親玉の統率のもとでどんどん開拓され、特に元禄時代の開発は、すばらしいものであったと言われます。それを発展させたのが古殿であったのです。


天満宮▲
A天神様を建立した庄吉

 暦応二年(一三三九)十一月二十五日庄吉氏が、天神様(大威徳八重梅天満宮)を建立しました。その後、破損したり倒滅したりしましたが、子孫の手によって今なお社が守られております。
 高部から西方寺へ下る途中にあり、その境内に八重咲きの珍らしい梅の木が十本程こみ入るように並んでおります。
この梅は、非常に古く、もう何百という年輪を刻んでおります。
 天満宮の御神体は、八重梅の木で彫刻され付知の職人が刻んだと伝えられております。
 ここの天満宮は、御獄権現より八重梅の三字を受け給わり、山城国北野神社より大威徳の神位を給わりました。そして、毎年三月二十五日に祭りが行われております。
 天満宮は、もともと頭脳の神様で、お参りすると頭が明晰(めいせき)になり、特に入学試験に合格すると伝えられております。

B坂下音頭になった与三郎

・おどりや始めたが、音頭はこぬか。音頭与三郎まだこぬか。
・音頭与三郎きたことはきたが、はやる風けで声たたぬ。
・声のたたぬにやたしかに毒じゃ、せんじあがれよ南天を……等々
 百八十曲に及ぶ坂下音頭が生まれました。この歌の中には、民衆の願いや苦しみがくり込まれております。与三郎さんは、歳若く文久三年七月三十九日(一八六三)に死亡されておられることから、百五十年ばかり前から歌われていたものと思われます。
 彼は、とても美声の持ち主であり、文学青年だったとも言われております。だが何時も病気勝ちで体が思うように動けなかったのです。
 彼の死後、与三郎音頭として盛んに歌われ踊られながら、遂に坂下音頭となったのです。
 まだ与三郎が生きていた頃から明治にかけては、高部観音堂広場を中心に踊り明かしたということです。
 これは、厳しい労働から開放された若者たちが、歌で語り合い踊りでもって恋もしたのです。
 その後、たび重なる戦争で歌は影をひそめていましたが、老人クラブや青運協を中心に再び復活し、学校でも子ども達に伝えさせる機会をえて、老人クラブの御指導も受け伴奏も歌も子どもにやらせ、全校おどりに取り入れることが出来ました。
 先人の残してくれた遺産を、後世に伝えることか出来たのは幸せであったと思います。




参考文献と話を開いた人
田原 金一(高部)
吉村 松太郎(高部)