じつ かが れい じん
実利霊神(高部)



高部にある実利霊神▲
 高部の握寄りの高台に、総欅(けやき)で作られたお堂の中に、杖をしっかりと握りしめ、見るからにたくましい像があります。
 この彫刻された像は、実利霊神といい、土地の人は塔様とか行者様とかいいなつかしんでみえます。
 高部に実利様を建立するにあたっては、可知かいさん(実利様の妹、中津川市十一屋旅館)が中心になり、方々とびまわり血みどろになって奔走し、その結果、財団法人として明治三十五年四月二十一日発足の運びとなりました。
 現在、大祭は四月十九日で、毎月一回十九日に例祭がおこなわれています。最初は、命日(入水の日)の二十一日でしたが、何時も雨降りが多いので十九日(五智如来の日)に途中で変更されましたが、この日も、雨との縁がなかなか切れないのです。それもそのはずで、もともと水に関係が深いからであります。
 四月の祭りには、幟がたくさん建てられ、講の衆や近在の人達が大勢集まり社務所一杯の盛況になります。この祭りの中心は高部と西方寺の講の人たちで、区域を三つに分けて三年に一回ずつ祭りの元が廻ってきます。
 昭和四十八年に、九十周年祭が立派に行われました。
 現在、実利様の志を受け継いで業を行なってみえるのが吉村金三氏で、氏は、那智で三年間荒業に励み位をいただいてみえます。
 実利様の一生は「行者講私記」という本にしるされております。
  →導師和讃
 実利様は、林実利と言い、天保十四年(一八四三)に高部で生まれ、若い時に御獄行者になり、二十二歳から二十四歳まで富士山で修業され、二十五歳の一時、妻と子ども二人を残して、紀の国(大峰山)へ修業に出られました。
修業は実に厳しく、岩穴で長い間、禅をされ、食べ物は五穀を断って、木の芽、根、そば粉、わらびなどで飢えをしのぎ、ある時は、断食修業を重ねられ荒業でありました。
 大峰山で二十七歳まで三年間修業されると、今度は、二十七歳から二十九歳の三年間、大台ヶ原に移り修業され、長い間の修業が認められ、役行者(えんのぎょうじゃ・山伏しの先祖)の弟子にしてもらい悟りをひらかれることになりました。
 有栖川宮新築祈願のあった時、全国の有名な行者の中から代表折祷師として選出され祈願をしました。
 その後、釈迦ヶ岳で修業中、有栖川宮殿下から「大峰山二代行者実利師」の号を賜わりました。
 修業を終えられ、坂下へもどり、悟りや、祈祷を頼まれあちこちひろめまわられました。
 再び、大峰山修業を思いたてられるや、坂下へは帰らない決意をされ、五智如来をたてまつり、幟もたくさんたててもらい盛大な門出を受け、上外、上野を経て、一路紀州大峰山をめざして出発されました。
 大峰山では、一枚歯の下駄をはき、険しい山をはい歩き、一里行くごとに、大護麻(生木を組んで祈祷の時に燃やす)をたいて供養し、「導師和讃」を一節ずつ書いて、七十五里の長い路を繰返しながら進まれました。
 導師和讃は、七十五行からなっており、後に木版として出版されました。
 修業が極点に達し、無様な死にかたはしたくないという決意のもとに、明治十七年四月二十一日、那智の滝に入水されました。
 それは、共同体の災害には、自分の身を捨てることが原点であって、その極地は死であるという考えのもとであります。それから一週間たつと、不思議にも禅を組んだまま浮きあがられました。
 葬儀の日、死を悼む関西の信者の列が、滝から共同墓地まで、十二、三町ほども果てしなく続いたと言われております。
 入水されてから、大阪を中心にした信者の願いで、五輪の石塔を建立することになり、大阪港から石を舟積みし、夜の九時に出発しました。信者が講を唱えながら、舟は紀伊水道をくぐり抜け、遥かかなたに那智の滝が朝日にまぶしく照らし出され、やがて勝浦港が手前に近ずき、朝の十時に到着いたしました。
 港からおもむろに降ろされた石は、共同墓地まで大勢の人々の手によって、無事運び建立されました。
 それから、四、五年の間は、参拝の人が多く、しきび(植物)が絶えることなく、線香を売る人が墓地に専門におりました。
 実利様入水の知らせが坂下に伝わったのはたいへんおそく、一年位だったと言われております。
 昭和十九年知多の大地震で、五輪の塔は痛めつけられましたが、勝浦と新宮の名のある石屋の親方三人の手によって、見事に復元されました。
 現在では、四月の祭りの前に代表が参拝に出掛けております。




参考文献と話を開いた人
教育テレビ宗教の時間…49・10・13
鷹の湯……坂中文芸部
可知 真一(中津川市)
原 新助(相沢)