はな うま
花馬



坂下神社の花馬▲
 十月十五日は、坂下神社の花馬の祭典です。
 この花馬祭りはずっと昔は八月十五日で、百姓のいちばん暇な時に行われていたようです。その後九月になったり四月になったりしましたが、今では十月五日に行なわれるようになったのです。
 坂下神社の由来は、もともと中外の法力屋地内に、外洞の豪族林小次郎永正の手によって祀こまれました。その後木曽義仲が御守り神として厚く信仰し、現在の場所へ移し合わせて十二の神を社に祀りました。社屋雄大、境内もすばらしく広かったようです。ところが寛文元年(一六六一)に焼失再建され、更に伊勢湾台風でこわされて昭和三十五年に再び建築され今日に至っているわけです。
 花馬祭りの三頭の馬が、ものの見事に飾られ、笛、太鼓、鼓(つづみ)のお囃子に合わせて行列をなし、神殿広場で繰り広げられる花取りは、勇壮そのものでありすばらしい伝統です。
 さて、花馬のおこりは、木曽義仲公が平家追討出陣の折、武運長久を祈願するため、宮ノ腰から山口村へ息せき切って馬をとばし、坂下神社へ参拝しようとしましたが、生憎(あいにく)、木曽川が氾濫して渡舟が出来ません。そこで妻籠城主樋口次郎兼房の献策で、幣を結びつけた かぶら矢を社(やしろ)めがけて射かけると、矢はうなりをあげて川を越え、草原にグザッとささりました。対岸に出迎えた氏子頭原善右エ門義明等が、その矢を受けとり、下組の馬の鞍にさし直ちに坂下神社へ代参しました。
 この効があったのか、平家追討に成功した義仲は、旭将軍を賜わりました。その知らせが伝わってくると坂下村三郷(下組、合郷、町組)の人々は歓喜し、幣を結びつけた矢を三条作って下組の馬の脊に立てて、庄屋、組頭を先頭に村中総出で笛、太鼓を打ち鳴らし参拝したことが始まりだと伝えられています。
 花馬は戦勝のお祝いばかりでなく、何時の日にか農民の祭りになり、幣束は白絹十二段(一年分)として着物の意味に変わり、花の色は田畑の農作物を表わし、金は稲穂、銀は麦、黄は大豆、紫は小豆、白は大根、青は菜、赤は人参として神様に献上されるようになりました。
 花竹の長さは、四尺五寸と五尺五寸の二種類になっていて、それをうまく鞍に差し分けるのです。
 数は、氏子一戸一本を奉納するのが原則ですが、戸数の少ない郷では、あまりにも寂し過ぎるので余分にたして五百本位をつけるのです。これが限度で、弱い馬だと倒れます。数をたくさんつけるので、一頭に三百六十五本(一年分)つけるんだと言い習わされてもいます。
 花は一本の花竹に交互に四ヶ所つけ、短冊はニケ所つけるのが建前だそうです。お囃子は数曲あり、さがりおかざき、ちゃちゃぶくろ、さいとろさし、おひりさいさい等を奏でます。
 お囃子の編成は、稚児四人、笛二人、太鼓二人、鼓二人が原則で中学生が夏から猛練習して本番にのぞみます。
 花馬の出発場所は、もともと庄屋から出ましたが、明治になってからは、下組は井織屋の酒屋が丸田屋の酒屋になり、合郷は吉村の酒屋が若宮神社になり、町組は松井の酒屋が担当自治会の集会所になりました。
 三三五五に行列を作り、駅前広場に集まってお囃子を奏でながら神社へ向かって行くと、もう参道までは見物人が押しかけて歓迎しています。その中を花馬はお囃子に合わせて登りつめ、神殿広場を三回廻わると勇ましく花取りが展開されます。
 この花馬の祭典のあと、あちこちの野菜畑に花取りの花竹がさしかけてあるのを見ますと、「取った花竹を畑にさすと虫がよりつかない。」と言うことからくる、豊作を願う人々の昔に変らぬ心にふれる思いがします。




参考文献と話を開いた人
坂下町史
原 恭夫(中外)
原 吉六(新田)
林 彦太郎(握)
原 新助(相沢)