ほう りき や
法力屋(中外)


 まだ外の洞には人家がまばらな頃、林小次郎永正という行者様が宝物をたくさん持って、中外に住もうとやってきました。
 宝物をたくさん持って土着したことを聞いた野武士どもが、宝物を奪おうとして木曽西古道の鎮野峠を越え中外へやって来ました。
 前夜の激しい雨で外川は、どす黒い水があふれ、石と石のぶつかる音が無気味に聞こえてきます。野武士どもは渡ることが出来ず、じたんだ踏んだあげく、弓矢で攻めたてようとしました。行者は平然として、
 「討てるものなら討ってみよ。我が法の力を示してくれる。」
そう言ったかと思うと、祭壇を設け、大護摩(おおごま)をたき(生木を組んでもやす)、声高らかに経文を唱なえはじめました。
すると行者の目の前に紫の煙がたなびき始め、どうしたことか射る矢も射る矢もみんなはずれてしまうではありませんか。
 驚いたのは野武士どもです。慌てるやら、悔しがるやら、大騒ぎとなりました。そこで野武士の親玉は、九十九本目の矢を強い弓につがえ、力一杯引きしぼってヒョウと放つと勢いよく飛んで行った矢は、行者に突き刺さるかと思いきや、紫の煙にのせられ、酒か覚宗谷の頂上、鳥帽子岩にキリキリキリと当たりあえなく折れてしまいました。
 野武士どもは、法の力には、とうとう勝てずあきらめて帰ってしまいました。

 行者の住んでいた地名を法力屋といい、矢の外れた川を外川といいます。
 永正の墓といわれる祠を法力屋若宮八幡宮といい、坂下神社の大元で、今でもここから祭典の前の日、参拝して花馬が出発します。
 祠のまわりには、今でも不思議なことがあります。それは、笹竹がまわりにたくさん生えているのに、境内には一本も生えておりません。土地の人は法の力ではないかといっています。
 鳥帽子岩の南側の下の部分に、縦一・五センチメートル、横五ミリ、深さ三〇センチ位の矢の跡といわれる穴がありましたが、農地保善事業の時、割り取られてしまいました。


若宮神社▲



参考文献と話を開いた人
鷹の湯……坂中文芸部
原 恭夫(中外)