あ み だ さま
阿弥陀様(西方寺)


 西方寺の入口の曲り角の岩石に、見事な阿弥陀の像が彫刻してあります。
この阿弥陀は、享保年間(一七三〇頃)に、西方寺一帯の親玉だと言われた可知一家(現在中津川市十一屋旅館)が建立したものではないかと言われております。
 この頃に、巨大な岩石に彫刻をほどこすようなことをするには、並大抵のことではありません。それは、この附近の人達の願望でもあった西方寺という立派な寺が焼失して、まわり一帯の寂しさと、仏教に対して非常に信仰のあつかった当時のようすを想像することができます。
 岩石に彫刻されている阿弥陀仏が建立される前に、西方寺がありました。この寺はまぼろしの寺といわれるほどで、くわしくわかっておりませんが、浄土宗の非常に古い寺で、この地域一帯の大寺であったことは、今日残されている地名や広い敷地などからわかります。
 西方寺が焼失したのは今からおよそ四百年前(一五七二年元亀三年頃)で、甲斐の国の武将武田信玄の第四子武田勝頼が、美濃を平定のため木曽から東濃へ攻め入り、その時に中津川、土岐をはじめ多くの寺を焼き払っています。
西方寺も、この時に焼き払われ、総てのものが灰となってしまいました。
 ここから堀り出された遺物をみると、鎌倉時代のものが多いと言われています。
 焼き払いをくわされた時、梵鐘(ぼんしょう)と、阿弥陀仏本尊釈迦湿槃画像などが須原の定勝寺へ持ち運ばれたと伝わっています。(現在の定勝寺は江戸時代になってから建立されたもので、木曽川よりに古くはありました。しかし、物的証拠は何もありません。)
 寺が焼失されて長い間、人々は寺の再建に心を寄せていました。何百何十年と流れた年月の後、せめてもの寺の御本尊阿弥陀仏を岩石に彫刻しようとの建立の願いが高まり、親玉可知が中心になって建立への運びとなったと思われます。
 どこの誰が彫刻したのかは、まったくわかっておりませんが、ノミ一つであのすばらしい仏像が刻まれ、しかも左横に歌が刻みこまれています。何が書いてあるのか風雨にさらされ、まったくわからないし知っている人もいないようです。

西方寺の阿弥陀様▲
 岩の横に、ぬき穴が二つあります。それはお参りのためひさしが作られていた時の穴です。
 今、お祭りが三月五日で坂下では最も早く、この祭りから春が始まり、人々は、田畑に精を出し農耕の活動に入っ ていくのです。今、可知てるさんをはじめ、近くの人は毎日のようにお供えをしてみえるし、西方寺の境内にあった秋命菊は京都から坊さんが持ってきて植えたものだと言われ、今でも高石垣(古井実氏)のまわりに根強く残り十月には花を咲かせています。また五月には、岩石においかぶさるようにめずらしい白い藤の花が見事に咲き乱れ、その美しさに増して正座姿の阿弥陀仏は、おのずと中津街道を通る人々の心を慰め満たしてくれるのです。
 阿弥陀仏が建立されてから、こんな話が伝わっています。


 明治三年、廃仏毀釈の時、このような立派な仏像はこわしてたまるものかと、信仰のあつい可知亀次郎氏(中津川市十一屋旅館、当時は西方寺の幸屋)が仏像の前に石垣を築かせてかくし、うまく難をのがれることが出来ました。
 みつかれば打ち首、大変勇気のいることであったにちがいありません。
 世の中が治まり明治十五、六年の頃、石垣をとりはずし長く暗闇みにみえた阿弥陀仏に感謝するため、明治二十七年に可知亀次郎氏は供養塔をニ基建て奉納いたします。
 明治の終わり中央本線工事のとき、測量をしだした鉄道の技師たちは、握の方から測量器をのぞいては、西方寺の阿弥陀の上を通して相沢へと測量の杭を打ち始めました。
 話はそれからもつれてきました。目をつりあげ、真赤に怒った可知九郎介氏は、
 「ここは、おそれおおくも阿弥陀様の石だぞ。こんなでっかい石をいざらせるなんて出来るのか。こわすなんてとんでもないことだ。祖先から受けついだ大事なものだからなあ。」
力みたつ九郎介のことばに測量の技師は、はたと困ってしまいました。
 数日たって、また測量していると不思議なことがおこりました。いくら測量しても阿弥陀の岩へ向けると測量器が狂ってしまうのです。何回しても、誰が変ってしても同じことがおきてしまいます。そこに居合わせた可知九郎介氏は、
 「それみ、それみ、阿弥陀の光がさしこんだぞ。阿弥陀を動かすようなことをすると、汽車がひっくりかえるぞ。それより岩の横を通せ。最前から横は通さんと言っていないぞ。」
 技師達は、冷や汗をかきかき体がふるえはじめました。
 「たたりがあっては俺らの命もどうなるかわからんし、それに汽車がひっくりかえってはそれこそ大変だからなあ。」
 「おおそうや、そうや。」
機械を肩にした技師たちは
 「握の方からやりなおしだ。阿弥陀の横を通すように測ろう。」
機械をひっかついでやりなおしをしました。
 それから工事に取りかかり、阿弥陀の横を通り、ものすごい盛土をし、川上川に鉄橋をかけ、明治四十一年汽車は野尻まで通るようになりました。
 その時に、可知九郎介氏(幸屋)の家が移転することになり、現在の十一屋旅館を買って移転することになりました。移転料として百円札を六枚いただき、巨額の金に手足がふるえたということです。
 村の人たちは、まだ見たことのない百円札を拝ませてもらいにきたと言う話です。




参考文献と話を開いた人
日本歴史大辞典…小学館
原 太一(西方寺)
原 竜甫(西方寺)
原 新助(相沢)
可知 真一(中津川市)
定勝寺住職(須原)
古井 荘平(西方寺)
原 寛(相沢)