お じょう かん のん
頭上観音(上外)


 上外の観音堂の横に、頭上観音が建立されています。
 この観音様には、高峰山観音(現在、付知町宗敦寺に高峰観音として安置され、木像で鑑定によると鎌倉時代中期のものだと言われています。 )のとても厚い信仰の女の人で、お丈(じょう)というお方が祀りこんであります。
 お丈さんは、江戸時代のことではっきりわかっていないが、安永年間頃(一七八〇頃)の人ではないかと言われています。
 生家は資産家で、幼い時より学問に励み読み書きが達者であったと伝えられています。
 お丈さんの住み家は、小畑為吉氏の近くの日外入り(ひがいり)という所にあったそうです。
 お丈さんは八卦(はつけ)を見たり、病人を治したり、結婚の相談はもちろん、村の各地から祈祷を頼まれ、日夜奔走されたと言われています。
 子どもがなく、一人暮らしであったため、助七という子どもを貰いうけ、立派に育てられたそうです。
 祭りは年に二回催され、春は旧のニノ午の前日に、秋は一年無事であったことをお礼する意味を含め、十月一日に行われています。
 今も近くに住んで見える中平の林たつさんは、毎日毎日、お供えとお参りをして供養されております。


 お丈さんは高峰山観音様に三十三夜、丑満時(うしみつどき・午前二時)に経文を読み願をかけられました。
 それは、一月の寒の入りから始められました。まず家の井戸で顔を洗い、白衣に身をまとい神鍋(かんなべ・現在、アーチェリー附近)でこりをとり(体を清める)、チンチンと鐘をたたきながら雪を踏んで高峰頂上へたどりつくと、すでに体は氷のようになっておりました。そんな寒さの中で、長い長い経文を読み、祈祷されました。
 五日過ぎ、十日過ぎ、毎日毎日厳しい修行にたちむかわれ、三十三夜の満願の日、何時ものように長い経文を読み終わると、不思議な事がおこりました。すぐ目の前に、観音様が現われ、
 「そちは、女の身でありながら、しかも夜中に毎日かかさず、よくお参りを通した。」
 そう言って、お丈さんをほめたたえ、木の杖を一本授けてくださいました。
 お丈さんは、たいへん感激して家へ持ち帰り大切にしまっておられました。
 それから犬の寝屋という所がありますが、そこの洞穴に山犬(おおかみ)が住んでおり近くのお守りをするので、お丈さんは赤飯をたいて、犬にお礼参りをよくされました。
 時もたって、身も細くなり、息をひきとられる時、
 「どうか、勝手なお願いでございます。お丈を観音として祭ってほしいが……。」
と言いながら、守り神として大切にしていた金の観音様を飲んで成仏されました。
 しばらくたって、助七さんは近くに家を移築(助七渡し)して、大切に杖をしまっておきましたが、不幸にも火事にあって、家も杖も焼けてしまいました。悲しんだ助七さんは、「母上にも、高峰観音様にも申しわけない事をしてしまった。」
と、男泣きに泣きくずれてしまい、その頃から、助七さんの消息はわからなくなったということです。


頭上観音▲





参考文献と話を開いた人
安江 善吉(乙坂)
林 たつ(上外)
小畑 為吉(上外)
安江 耕助(上外)