せ しゅく こう ぼう
施宿弘法(新田)


 弥栄橋から百メートルきて、桧の生垣に囲まれた所に弘法様があります。これが通称「施宿弘法」といい、天保七年丙申三月二十一日(一八三六)施主新八郎妻いく建立と印され、毎年松井家では春の彼岸に供養してみえます。
 話は文政十ニ年(一八二九)から天保七年(一八三六)にかけた八年間のことですが、新八郎といくは延べ千七百人の旅人に一夜の宿を無料奉仕し、食事や草鞋を与え、日毎に変らぬ情愛を持って送り迎えしました。
 このあたりは、中山道の裏街道で、飛騨、飛信両街道が舟渡しへ通り飯田へ通ずる道が開けており、旅人の往来もかなりありました。とくに多いのは商人で、飛騨からの乾物(日本海でとれた魚類・昔は日本海の物が多く、太平洋からは交通上きませんでした。)を飯田伊那方面へ舟渡しを利用して運んでおりました。この頃は七、八軒ぽつりぽつり石屋根の家があるだけで、新八良夫妻も暮らしは決して豊かではありませんでした。
 文政十二年の夏は、何時もの年より大変に暑く、青々とのびていく稲田をみながら、今日も高峰山へ愛馬を引いて草刈りに出掛けました。焼けつくような太陽を体一杯に受けて群がるあぶや蝿を追いながら、中腹にある芝干場では、もうみんな一生懸命に芝刈りに励んでおりました。
 何となく心せく新八郎はみんなと別れて草刈りを始めました。頂上の近くに白い入道雲が出たかと思うと見る見る広がり暗黒の色になってしまいました。急いで草を集めていると大粒の雨がぽつりぽつり降ってきました。そして激しい閃光が二、三条出たかと思うと、天地が裂けんばかりの大音響に、新八郎は馬の手綱を切ってうつ伏せてしまいました。
 しばらく失神しておりましたが、ようやく我にかえると、馬をつないでいた松の木が真二つに裂けておりました。
その時、新八郎は思わず手綱を切って逃げれたのは弘法様のお蔭であると「南無大師遍照金剛」と合掌しました。
 高峰山の落雷で命拾いをした新八郎は、十数日の間、口もきかず深く考え込んでいました。そして、ある夕方一人の気品のある坊さんか宿を探してきました。新八郎夫婦は心よく招いて夏の危い命拾いのことを話し、何か恩に報いたいと相談しました。じっと聞いていた旅僧は、
 「それは奇徳のことやった。施宿をなされ。旅の者は皆宿に困っている。そりゃいい功徳やあ。」
それから、新八郎夫婦は千七百人の施宿をすることを決意して、翌朝坊さんを見送りました。
 聞き伝えに一夜の宿を乞う者があれば、乞食であろうと、坊主、瞽女、駈落者であろうと心よく迎えてやりました。
 何年かたったある夕方のこと、若い男女がおずおずと訪れて新八郎の門口に立っていました。
 「あなた方はどこからみえて、どこへ行かっせるえも。」
妻のいくが聞くと、
 「は、はい。」
と、若い男は顔を上げて答えたが、すぐに下を向いてしまいました。
 「失礼やが、事情がおありのように見受けますが、私共は旅籠屋でも何でもありません。宿帳調べもありゃせんから、差支えがなかったら生れ国や行き先を教えておくれんさいも。」と、妻のいくが心やさしく言うと、その心にうつされたのか、男は、
 「はい、あの私共は摂津の大阪南仁太町で私は佐平、これは露と申します。」
と答えると新八郎は、
 「大阪は噂に聞けば、かなり賑わしい所じゃなも。」
新八郎は行き先も聞かずに坂下紙で綴った悲願施宿帳天保二年(一八三ー)と記した覚帳を開くと、あたり箱のちびた筆を取り出し穂先をかみしめて、十月七日、奉納善光寺、摂津大阪南仁太町、二人佐平、露と書きとめました。そして大阪の話はあまり聞かず、
 「毎日の旅でお疲れやで、奥へ行って休んでおくれ。」
と、妻のいくがいたわるように言うと、若い二人は寄り添うように奥座敷へ姿を消していきました。
 翌朝、冷たい清水のあふれる筧(かけひ)の水に顔を洗い口をすすぎ、びんをかき上げると、昨夜は何か落付きがなかった二人は、若いだけあって生き生きとしておりました。
 「どうも、たいへん御厄介になりまして本当に有難うございました。御恩は一生忘れません。」
 「いや、何事もお大師様のお慈悲やぜも。どうか気をつけて行きんさい。」
框(かまち)に装足を調えようとする新八郎も、豊かでない百姓です。
 「路銀のたしまでは出来んが……。」
と、昨夜作っておいた草鞋を差し出すと、二人は涙ぐんで受けとり、それを履いて何度も御礼を言いながら出掛けて行く後姿を見送る新八郎夫妻の心はすがすがしく、山口山を離れた太陽のばら色の光が二人に一杯あたっておりました。
 それから何冊目かの宿帳に、念願の千七百人が達成しました。それは始めてから八年目の長い苦労の連続でした。
 そして達成を記念して新八郎夫妻は、弘法大師の座像を刻み建立しました。



施宿弘法▲





参考文献と話を開いた人
坂下新聞
原 吉六(新田)