こう しん そん
庚申尊(島平二)



庚申尊▲
 稲荷山(島平二)に、金龍山三井寺があります。そこのすぐ下に、小さなお堂があり、その中には、庚申尊、千手観音、それに御本体は盗難にあってなくなってしまったが、不動明王が祭られてあります。
 庚申尊とは庚申様のことで、猿田彦大神とか青面金剛菩薩だとか言れれております。庚申様は時代の流れの中で、仏教的、神道的に混和し道祖神とも結びついて、各地の路傍に庚申塔だとか、庚申塚が見られるようになりました。
 庚申様の祭りは毎年六十一日目の庚(かのえ)の申(さる)の日に繰返されておりますが、一番盛大なのは第二回目の春です。
 庚申尊は、銭もうけをしてくださるとか、田や畑を守りしてくださるとか、家の供養や方よけをしてくださるとかでお参りが多いようです。
 本庚申尊は、寛永十発酉年(一六三三)に合郷の元床屋邸内に迎えられ、庚申講ができて信仰をしてみえました。
そして、享保十七年壬子年(一七三二)に百年祭が営まれ、次いで天保三壬辰年(一八三二)に二百年祭がとりおこなわれました。
 明治三年の廃仏毀釈で焼き捨ての運命にある時、有志一同相談の結果、木曽田立村の奥垣戸に、こっそり預けておくことになりました。それから十年ほどたって木曽方面の信者の要請によって、同村いもじ屋の脇に仮の堂を設けて出開帳を行ない、僅かながらも信者の満足を満たしておりました。
 世の中が治まって、再び坂下へ戻る事になり、合郷の山手の上蔵に安置して細々と信仰をしてみえました。
 昭和になってから、三百年祭開催を機会に堂宇建立の話が持ち上り、五十余年間の眠りから世へ出られることになりました。
 当時の町会議員が発起人となられ、有志の賛助を受け、ようやく昭和六年に三百年祭が執行されました。祭りは盛大に、左のようにとりおこなわれました。

  日時 四月十九日
  午前十一時より遷座式
       (稚子行列)
  午後一時より供養大祭
      投餅
      坂下庚申講中

 現在は、商工会の管理になっております。下野の庚申尊と年代を比較してみると、十数年後から迎えられたことになるようです。
 廃仏毀釈の時、間違えば首になるのを覚悟して田立村へ移してお守りした尊い御本尊を大切にしていきたいものです。
 庚申にはこんな伝えばなしがあります。

 廃仏毀釈の時、田立村の奥垣戸の土蔵の中で十年間身動きせずじっとして過ごされてから、同じ村のいもじ屋の脇に仮のお堂を作ってそこへ移しました。その頃から、木曽方面のお参りが多くなり、坂下からも、ぼつぼつお参りに行く人が出てきました。
 しかし、占い者の見立てによると民家におくことはよくないとの予言に、田立の人達は恐くなり元の坂下へ一日も早く返したいと言い出しました。
 坂下では、こんな大事な御本尊をどうしたらよいか迷い、とりあえず山手(吉村守二氏)の土蔵に安置することになったと伝えられております。
 昔は、庚申の口には、健康で、安全であるようにと炒豆を食べたり、握り物を食べたりしました。
 女の人は、この日くらいは体を休めるために縫針を持たないとか、間違えて草履を作った時は、柿の木につるすなどして休みました。また素足でお参りすると、あかぎれが治って足が大夫になると言ったものです。
 庚申の日に、妊娠すると盗人になると言います。それは、石川五右衛門の生まれた日だからとか、庚申の月に子どもが生まれた時、金へんのつく名前をつけると、福徳が授かるとか言ったそうです。
 「お話は庚申の晩に」との諺(ことわざ)の出来たのは、いつわりのない話が出来るとの意味からだそうです。




参考文献と話を開いた人
日本歴史大辞典…小学館
吉村 洋一(新町)
安江 善吉(乙坂)
原 新助(相沢)