たか みね かん のん
高峰観音(中外)



高峰観音の御本尊(付知町宗敦寺)▲
 廃仏毀釈の時までは、高峰山頂からやや苗木よりの所に祠(ほこら)を建て、その中に観音様が祭りこんでありました。
 本観音は、牛馬の観音として、昔から信仰され、かざり馬でお参りしたり、馬の子が生まれると参り、出馬入馬があると参ったりしたものだそうです。
 安永年間(約二一〇年前)に苗木城主遠山家の奥方に午年生まれの人があり、御守り本尊として厚く信仰されたそうです。
 今は、付知町宗敦寺の立派な英霊殿に安置され、大祭は年二回あり、春は四月の第二日曜日、夏は八月十八日に営まれ、他は毎月十八日に供養されております。
 御本尊は、木造の彫刻で色は黒く、高さは五十センチ位あり、正座の姿はこうごうしい感じがし、鑑定によると鎌倉時代の作品で、聖観音(しょうかんのん)とされているようですが、しかし実際は大日如来だということです。
 坂下では、頭上観音(お丈さん)が崇拝されたし、御獄行者を始め幾多の村人も、馬の安全祈願をこめてお参りをし、苗木からもよくお参りがあったということですです。
 廃仏毀釈以後、祠も観音も何もない淋しさに復興の話が持ち上がり、ようやく明治三十六年に石仏三十三体(西国三十三番)を、乙坂の早川丈右衛門さんが彫刻され、人馬の脊で山頂へ運び、小さな祠を建て祭りこまれました。
 今では、お堂もつぶれかけ、床は落ちて殆んど影をひそめてしまっているが、昔は、初午の日には、朝早く身を清め、馬を持つ人達は、一年中の安全を祈りに山頂へ長蛇の列をなしてお参りしたそうです。今でも高峰観音下とかの地名が残っています。
 中外の橋の側にある観音は里宮にあたるわけで、山頂まで行けない人は、ここでお参りしたとのことです。
 高峰観音にはこんな伝えばなしがあります。



▲高峰観音の祠
 廃仏毀釈で焼き払いを命ぜられて、祠が燃やされてしまいました。火はまたたくまに燃え上がり、きれいに灰と化してしまいました。
 その時、不思議な事が起きたのです。燃えたはずの観音様が、左肩の一部分が焦げただけで残っているではありませんか。村人はびっくりしてしまいました。
 そこで相談したことには、畚(もっこ)に入れてかついで木曽川へ持っていって土左衛門(水没)にしようということになりました。
 さっそく、高峰よりかついで、苗木の農道を歩いていると、ふと、そこを通りかかった中津川へ用足しの付知の中谷の熊谷さんが、 「何をかついで行きようりなる。」
と問いかけたのです。畚をかついだ村人達は
 「山で観音堂を焼いたが、観音様だけどうしても燃えなんだ。
しゃないで木曽川へ土右衛門にしょうと思って、いまかついで行きようるとこや。」
と、答えると、
 「そんな恐しい事はせんなれんな。俺におくれなれ。今、一寸中津川へ用足しに行きようるとこやぜん。帰りに貰って行くで分けておくれなれ。」
と、言いました。すると口を揃えて、
 「そりゃいいこっちゃ。土左衛門にするきゃないで。」
と、言う事で話がまとまり、観音様は道端においておく事になり、村人と熊谷さんとは別れました。
 熊谷さんは、中津川から戻ってくると、観音様はどっしりとおいてありました。
 脊負って歩きながら考えました。
 『この観音を売って銭にしようか。家においておこうか。いやいや崇りがあるとどえらいことになるし。 』そんなことを考えながら、日暮れの道を我が家へと急ぎました。
 家へ着いて火の光でよく見ると、すばらしい観音様に驚きました。かかあも、近所の人を呼んできました。
 「おい!こんな立派な観音様は、家においては罰があたるぜん。お寺へ寄付しなれ。」
 と、口を揃えて言い出しました。それからお寺(宗敦寺)へ持っていって頼みました。
 お寺では、さっそく観音堂を建てお守りしました。




参考文献と話を開いた人
みかえりの松……坂中文芸部
付知町史
坂下町史
原 新助(相沢)
原 恭夫(中外)
宗敦寺住職(付知町)